明治六年の政変から台湾出兵、江華島事件

 征韓論争は天皇が朝鮮への使節派遣を無期延期したことで決着しました。公家の岩倉具視が天皇に意見をしたと言われています。岩倉は倒幕の密勅にも関わったとされています。

 

 

 論争に敗れた征韓派の参議たちは一斉に下野しました。西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平の5人です。参議とは現在でいう大臣のようなもので、当時9人がその地位にありました。そこから5人が消えたのです。これは後に明治六年の政変と呼ばれました。下野した5人はこののち反政府運動を展開していくことになります。

 

 

 いっぽう政府に残った大久保利通は内務省を設置してその長官である内務卿に就任しました。これは大久保が、政府の事実上のトップに立ったということを意味します。なぜなら太政大臣の三条実美や右大臣の岩倉具視は役職だけを考えれば大久保より上ですが、ふたりとも公家出身という身分が優先されていて実力者とは言い切れなかったからです。

 

 

 そのうえ内務省は、民営事業の育成にはじまり地方行政や警察までも管理する重要な省庁でした。大久保のライバルたちがいっせいに辞めた時期でもありますので、権力の集中はかなりのものがあったことが予測されます。

 

 

 この大久保と西郷隆盛と木戸孝允の3人は「維新の三傑」とよばれています。このときに西郷が下野しましたが、木戸孝允も翌年1874年に下野しています。台湾出兵に反対したからです。台湾出兵は征韓論争で「内治優先」をとなえた人たちが中心となってとなえたものだったのです。かなり矛盾していることがわかると思います。

 

 

 そして翌年、江華島事件でさらに矛盾はすすみます。1875年に明治政府は軍艦を朝鮮に派遣し首都の漢城(現在のソウル)のすぐそばの江華島を測量して朝鮮を挑発しました。そして江華島の守備兵から発砲をうけると応戦し、江華島の砲台を破壊しました。翌年、日朝修好条規が結ばれました。これは朝鮮にとって不平等な条約で、主な内容は次の3つです。
@ 朝鮮の自主独立の承認
A 釜山・仁川・元山の開港
B 日本の領事裁判権の承認と関税免除  

 

このように結局、大久保政権は朝鮮に軍隊を派遣し開国させたのです。しかも日本が欧米列強に押し付けられていた領事裁判権を認めさせ、関税をとることも認めませんでした。
 この時点で内治優先という考え方は見えなくなっています。士族の不満などの理由もあったようですが、大久保たちと西郷たち留守組との権力争いが絡んでいたと考えるほうが自然かもしれません。

 

 

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