廃藩置県から岩倉遣外使節団

廃藩置県は、すべての政治家の了承を得た上ではなく、大久保利通や西郷隆盛、木戸孝允などの一部の指導者だけで極秘に決定され、天皇の命令により電光石火のごとくに実行されました。大久保たちよりも地位が高い岩倉具視や三条実美でさえも知らされたのは実行の二日前だったようです。

 

 

こうした事情だったため、廃藩に抵抗する者がでるかもしれないと事前に薩摩・長州・土佐の三藩から兵をつのり、御親兵という軍隊を組織して備えていました。

 

 

しかし大きな流血をともなうような反抗はありませんでした。理由はいくつか考えられるのですが、諸藩の債務を政府が引き継ぐとしたため藩政をになっていた人たちの肩の荷がおりたということが考えられます。かなりの藩では負債を抱えていたという事実があったためです。

 

 

ちなみに各府県の首長を住民の選挙で選ぶようになるのは戦後のことで戦前はずっと政府が任命するという形が続きます。これは意外と知られていないことです。

 

 

廃藩置県の断行で中央集権化が一段落すると対外交渉に乗りだしました。まず初めに幕末に結んだ不平等条約の改正交渉をするため、岩倉遣外使節団を派遣しました。公家の岩倉具視をリーダーとして大久保利通、木戸孝允、伊藤博文たちに留学生を加えると約100名がアメリカに渡りました。

 

 

留学生の中には女性が5名いて、8歳で最年少であった津田梅子はのちに女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設します。また中江兆民はこのときフランスに留学し、のちにルソーの唱える天賦人権主義を「民約約解」で紹介しました。天賦人権主義とは、人間は生まれながらに自由・平等の生活を求める権利があるという考え方で、自由民権運動の思想的な支えとなっています。

 

 

そして使節団はグラント大統領の歓迎を受けますが、いざ交渉となってみると外交交渉の権限を持つことを公に証明する全権委任状を持っておらず、いきなりつまずきました。そのために大久保と伊藤は全権委任状を取りに日本へ戻ったほどです。日本はこの当時この程度の国際ルールすら知らなかったのです。これでは条約改正は不可能であることがわかると思います。

 

 

その後、使節団一行はヨーロッパに渡りますが、条約改正交渉はどこでも不発に終わり、途中から目的を変更して各国の制度や文化の調査に力を注ぐようになります。もちろんそこでも産業力、工業力の違いを見せ付けられ実感させられることで大久保などは現時点でのあまりの差に絶望したとまで言われています。

 

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