日英同盟と日露協商。優先は?

長州藩出身の桂太郎は戊辰戦争における功績で得た資金でドイツに留学し、そこで学んだドイツ軍制を日本の陸軍の改革にいかしました。のちに陸軍大臣を何度もつとめ出世していったのです。この桂太郎が第四次伊藤内閣の後を継いで首相となりました。明治維新を達成した有力政治家が首相をつとめる時代は終わり、次世代の桂太郎と西園寺公望が交互に組閣する桂園時代が始まったのです。伊藤や山県たちは元老として天皇を支えることになりました。

 

 

 そのころ新たな外交問題が発生していました。北清事変で北京に出兵したロシア軍がそのまま中国東北地方の満州を占領したのです。満州と朝鮮は隣接地であるため日本としては看過できない事態です。この対策として二つの道が考えられました。一つはイギリスと同盟を結んでロシアの動きを牽制しようというものです。もう一つはロシアとのあいだに互いの権益を認め合う条約を結ぼうというものです。ロシアが満州を支配することを認めるかわりに日本が韓国を支配することをロシアに認めさせるのです。前者を日英同盟論、後者を日露協商論といいました。

 

 

 日英同盟を結んだらロシアとは敵対関係になり、場合によって戦争になるかもしれませんが大国ロシアに勝つのは非常に困難です。逆に日露協商を結べば戦争は回避できますが満州の南端の遼東半島を取り戻すことはできません。これは三国干渉で悔しい思いをした日本人としてはつらい選択です。

 

 

 日英同盟論をとなえたのは山県有朋や桂太郎で、日露協商論をとなえたのは伊藤博文や井上馨でした。ここでも伊藤と山県の対立が発生したのです。伊藤は「光栄ある孤立」を保つイギリスが日本と同盟など結ぶはずがないと考えました。しかし、この当時のイギリスは世界各地に植民地や権益を持っており、それらを維持することが苦しくなってきていたのです。このためロシアと日本が手を結ぶことはイギリスにとって不利益になると考え、日英同盟の締結に応じました。これで日本とロシアの開戦は決定的になりました。

 

 

 そして1904年、ついに日露戦争の先端が開かれました。日本が旅順のロシア艦隊を攻撃し、宣戦布告をおこなったのです。日本は新鋭の軍艦をある程度は備えていたものの武器・弾薬に乏しく、長期にわたる戦争には耐えられない状態でした。それゆえロシアの増援部隊が本格的に来る前に短期間で極東のロシア軍を壊滅しようと考えていたのです。

 

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