伊藤博文と山県有朋の対立

第二次山県内閣と提携していた憲政党はやがて山県との関係を解消しました。山県は政策実行のために政党と提携していただけで政党という存在そのものは嫌っていたからです。これは山県が死ぬまで変わりませんでした。

 

 

 立場が尊重されなくなった憲政党は伊藤博文に接近していきました。憲政党のもとをたどれば自由党です。そんな政党が伊藤に接近するというのはありえないことのようですが、野党でいるかぎり政策決定に関わることができません。そういった事情もあって藩閥と妥協する道を選んだわけです。いっぽうの伊藤はかつて自由党と連携したことのある人物で、みずから政党をもつことで議会運営をスムーズに進めようとしていました。こうして1900年、伊藤系官僚と憲政党がいっしょになって立憲政友会という政党ができました。初代総裁は伊藤博文です。以後40年続く政党がこのとき誕生したのです。これを機に山県内閣は総辞職し、第四次伊藤博文内閣が成立しました。

 

 

 第四次伊藤内閣は衆議院第一党の立憲政友会を与党としているので安定した政治運営ができるものと思われました。しかし実際は貴族院からの反発にあって苦境にたたされていたのです。この反対勢力の背後にいたのは山県有朋でした。

 

 

 この山県有朋は伊藤博文と同じく長州藩出身でともに松下村塾で学んだ間柄です。しかし性格は間逆でした。伊藤が明るく開放的であったのに対し、山県は秘密主義で権力的。伊藤はみずから政党をもったことでもわかるように藩閥政治家でありながら議会の権利を尊重もしていました。これに対し山県は超然主義を徹底して貫き、政党を嫌い続けました。天皇のもとにある軍隊が政治的に偏ることはできません。

 

 

それゆえ軍人は政党に属することは認められていませんでした。つまり軍と政党は相容れない存在でした。その観点から考えれば陸軍の創設者である山県が軍部側に重心を置いたのに対して、伊藤は政党に重心をおいていたとも言えます。山県は長州・陸軍閥のリーダーになりました。山県の人脈は他にも広がっていました。初代内務大臣でしたので内務省をはじめとする官僚や貴族院にも人脈を築いていたのです。貴族院は国民の選挙によって選ばれるのではないため、基本的に政党は存在しません。政党を嫌っている山県としては貴族院に知己をつくっておくことで政党というものに対抗できたのです。そして、この山県に取り入って長州・陸軍閥の後継者的地位を獲得したのは桂太郎でした。

 

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