五箇条のご誓文、五傍の掲示、版籍奉還

江戸で西郷と勝が江戸城無血開城についての会談を行った日、京都では新政府が五箇条のご誓文をだしました。

 

これは政治の基本方針です。そこでは「広く会議を興し万機公論に決すべし」といって公儀世論を尊重し、攘夷運動を否定して開国和親をうたっています。また、天皇がこれを誓う形をとって天皇親政を強調しました。

 

 

その翌日には民衆の心得として五傍の掲示をかかげました。五箇条のご誓文が開明的なものであったのに対し、こちらは儒教道徳を強制し、民衆が徒党を組むのを禁止するなど江戸時代色の強いものです。キリスト教も続けて禁止したのですが、外国からの圧力を受け五年後に撤回しました。

 

 

次いで出されたのが政体書です。中央集権国家をめざして太政官制という政治機構を定めました。太政官制は1885年に内閣制度にかわるまで続きますが、途中、版籍奉還と廃藩置県のときの二度にわたってあらためられます。

 

 

その過程で、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩出身者が政治の重要な役職を独占するようになります。こうしてできあがった政府を藩閥政府といいます。

 

 

1869年に戊辰戦争が終わると、版籍奉還を行いました。これは大名たちに領地と領民を天皇に返還させる政策で、まず薩摩・長州・土佐・肥前の四藩主に出頭させ、それにならって他の藩も続いていきました。

 

 

しかし、これは大きな効果がでませんでした。それは藩そのものが残された上に元藩主が知藩事という役職に任命され、今までどおり藩政を続けたからです。ゆえに藩の税収入も政府のものになりませんでした。政府は元が幕僚だったところからしか徴税できなかったのです。

 

 

こういった中途半端な形での変化だったので、完全な中央集権化は達成されませんでした。江戸時代のしくみを幕藩体制といいますが、この時点では幕府が消滅しただけで藩はそのまま存在していたのです。そこで二年後に行われたのが廃藩置県でした。

 

 

 廃藩置県では完全に藩をなくし、東京・大阪・京都を府とし、残りの地域を県としました。今までの知藩事、つまり元の藩主たちは東京居住を命じられ、かわって各府県に政府があらたに任命した府知事や県令が派遣されていきました。

 

 

 当時、岩倉具視をはじめとする政府中枢の多くの政治家は藩を撤廃するのは時期尚早であると考えていました。しかし、大久保利通たちは藩が存続する体制に限界を感じており、中央政府が全国の徴税権や軍事権をにぎって本当の統一国家にならなければ欧米列強に追いついていけないと考えていたのです。

 

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