挫折を繰り返す明治時代の条約改正と大津事件

岩倉遣外使節団が挑戦した条約改正は、その後、明治末期まで40年もの歳月をかけて実現するにいたります。その過程を見ていきましょう。

 

 

 岩倉具視の後には外務卿、寺島宗則が関税自主権の回復をメインにして交渉し、アメリカとのあいだで仮条約を結ぶに至りました。しかし、イギリスなどが反対したため改正は実現しませんでした。

 

 

 そのあとを継いだ外務卿の井上馨は領事裁判権の撤廃をメインにして改正交渉にのぞみました。その際、改正に応じてくれるなら外国人の住む場所を居留地に限定するのをやめて内地雑居とし、外国人判事を日本で任用すると提案しました。日本のほうが外国人に厳しかったのです。そんなときにノルマントン号事件がおこりました。紀伊半島沖でイギリス船ノルマントン号が沈没し、そこに乗っていた日本人23名全員が溺死したのです。その原因はドレイク船長が人種差別をおこなって日本人を救命ボートに乗せなかったからでした。その後、イギリスの領事裁判所がドレイクに無罪判決を出すと、日本人は激怒し三大事件建白運動につながったのです。

 

 

 井上の辞任後、外務大臣に就いたのは大隈重信でした。しかし、その大隈も外国人判事を大審院にかぎって任用するという提案をしていました。これは井上とほとんど変わりません。大隈はこれを日本国民に隠していたためイギリスの新聞に暴露されると反対運動にあい、右翼団体から爆弾を投げつけられ右足を切断するほどの大怪我を負い外相を辞任しました。

 

 

 大隈の後に外相となった青木周蔵は今まで条約改正に冷たかったイギリスから同意を得ました。これは南下政策をとるロシアが東アジアにおけるイギリス権益を脅かしてきたためイギリスが日本を自分の側にひきつけようとしたからです。ところがこのチャンスも台無しにしてしまう事件が起こりました。来日中のロシア皇太子に日本人巡査が斬りかかり頭に傷を負わせた大津事件です。青木外相は責任を取って辞任しました。事件の処理を間違えるとロシアと戦争に突入する可能性もあったため政治家の多くは、この事件に大逆罪を適用して犯人の巡査を死刑にするべきだと主張しました。大逆罪とは皇族に危害を加える罪で危害を加えようとしただけでも罪になるものです。これをロシアの皇族にも適用しようとしたのです。ところが大審院長である児島惟謙は「大逆罪はあくまで日本の皇族に適用するものである」として大逆罪を適用せず、単に謀殺未遂罪を適用し、無期懲役としました。これは「司法権の独立」を守った判決として有名です。

 

 

関連ページ

戊辰戦争
五箇条のご誓文、五傍の掲示、版籍奉還
廃藩置県から岩倉遣外使節団
国民皆兵、地租改正
国民皆学、交通・通信の向上
文明開化の波
明治時代、士族は年金暮らし?
明治時代の琉球と朝鮮と日本の関係
明治六年の政変から台湾出兵、江華島事件
樺太・千島交換条約から自由民権運動へ
士族の不満と反乱
大久保の最期と次世代への道
明治時代の士族の不満と反乱
大久保利通が亡くなった後の政治
自由民権運動の広がりと新時代
政党の結成と私擬憲法
民権派の再結集と初代内閣総理大臣
大日本帝国憲法の制定
明治憲法の内容 
黒田清隆の超然主義
朝鮮国内の混乱から日清戦争へ
日清戦争後の政治形態
ロシアとの対立と清の列強支配
伊藤博文と山県有朋の対立
日英同盟と日露協商。優先は?
反対者も多かった日露戦争
納得できなかったポーツマス条約
松方デフレから産業革命へ
渋沢栄一の偉業
製糸業の発展と製鉄業
金本位制と労働運動の広がり
足尾銅山鉱毒事件と大逆事件
大正の始まりと軍部拡張
シーメンス事件から第一次世界大戦
日本軍の動きと大戦景気
ロシア革命とシベリア出兵
西園寺公望とパリ講和会議
領土問題とワシントン会議
日本の帝国主義と大正デモクラシー
天皇と天皇機関説
農民運動と原敬
原敬の最後と関東大震災