黒田清隆の超然主義

実際に議会が始まったらどうなるかを考えてみます。政府の提案する予算案は帝国議会で賛成多数を得なければ成立しないからです。国民が選ぶ衆議院議員は税金を下げろ、政府は無駄遣いするなというに違いないでしょう。

 

 

 憲法発布と同時に制定された衆議院議員選挙法では選挙資格が満25歳以上の男子で直接国税15円以上の納税者と定められていました。この条件を満たす人は国民の約1%しかいませんでした。そして15円以上もの税金を国家に直接納める人というのは、ほとんどが地主です。彼らの多くが民権派の政党に投票することは容易に想像されました。

 

 

 そこで憲法発布の翌日、首相の黒田清隆は超然主義の立場を表明しました。ここでいう「超然」とは政党が存在することは認めるが、ひとつの政党の意見に偏ってはいけないから政府は超然として政治をおこなう、という意味です。一見、公平な政治をすると言っているように見えますが、実際には政党の意見を尊重する気はないと言っているのです。この政治方針は、これ以後の藩閥政府の共通方針となっていきます。

 

 

 そして1890年がきます。国会開設に先駆けて第一回衆議院議員総選挙が行われました。その結果、民権派の政党である民党が過半数を制しています。自由党は復活し、立憲自由党を名乗り、立憲改進党も復活しました。福地源一郎の立憲帝政党はすでに解党していましたが、同じような性格の大成会という政党がありました。政府よりの政党です。こうした政党を吏党といいます。第一回帝国議会が始まると、さっそく来年度の予算案の審議が行われました。民党は「民力休養・経費節減」というスローガンをとなえて政府と対立しました。政府が軍備拡張予算を通そうとしたからです。

 

 

 当時は第一次山県有朋内閣でしたが、山県は立憲自由党の一部を買収し、採決の際に政府の予算案に賛成させて予算案を可決しました。

 

 

 このとき買収された議員に対して、激怒した議員がいます。中江兆民です。中江は土佐出身で、大阪から出馬し、被差別部落の人々の支持も受けて当選していました。しかし、同郷の片岡健吉たちが政府側に寝返ると彼らを「うじ虫の陳列場」となじって議員を辞職しました。片岡たちは「初めから議会を混乱させると欧米から未熟扱いされるので甘んじて政府案を受け入れた」と弁明しましたが、金銭を受け取っていた事実は隠せず、中江からそしりを受けることとなったのです。このように議会は初回から波乱を含んだものとなっていきました。

 

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