大日本帝国憲法の制定

 内閣ができたころすでに岩倉具視は亡くなっていましたが三条実美は存命だったため、その処遇が問題になりました。そこで三条には天皇を常に補佐する内大臣になってもらい、国政に関わらせないようにしました。同様に宮内省の長官である宮内大臣も内閣の外と位置づけました。皇室に近い人たちが国政を独占しないようにとの考えからですが、同時に天皇に政治責任を負わせないという意味も持っています。これは「宮内・府中の別」といわれました。

 

 

 首相となった伊藤は井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎らとともに極秘で憲法草案の起草に取り組みました。そうしてできた憲法草案を今度は新たに設置した枢密院で天皇にも同席を求め、確認されました。こうしてできあがった大日本帝国憲法は1889年2月11日、紀元節の日を選んで発布されました。紀元節とは初代天皇の神武天皇が即位したとされる日です。この憲法のことを一般民衆はどう感じたのでしょうか?それがわかる記述が「ベルツの日記」にあります。2月9日にドイツ人医師ベルツはこう記しています。

 

 

「東京全市は十一日の憲法発布を控えてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。到る所、奉祝門、証明、行列の計画。だが、こっけいなことに誰も憲法の内容をご存じないのだ」これからの日本国家を規定した憲法だというのに、その内容には無頓着で、お祭り騒ぎだけはしてしまう。これは当時の国民がまだ、国家というものを意識する段階に達していないことの一つの証明かもしれません。

 

 

 この明治憲法の注目すべき点は、まず内閣のメンバーつまり閣僚は総理大臣を中心に大蔵大臣、外務大臣というように10人ほどの国務大臣です。今の憲法では国会で首相を選ぶことになっていますが、明治憲法には首相の選び方は書かれていません。天皇が任命することになっているだけです。しかし天皇自身が首相を選ぶことはなく実際には明治維新から政治を主導してきた有力政治家の元勲(後には元老)が天皇に次期首相を推薦しました。

 

 

 首相に選ばれた人は他の国務大臣を選びます。そして天皇がすべての国務大臣を任命するのです。このやり方だと議会とは何の関係もなく内閣が成立するため、議会と内閣が対立することもしばしばでした。議会の多数派から首相を選ぶ、現在のような議院内閣制ではなかったのです。予算案や法律案を成立させるには議会の賛成多数が必要とされたため、内閣は議会運営に苦労しました。

 

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