民権派の再結集と初代内閣総理大臣

 自由党員と農民が激化していったのに対し、自由党幹部の動きは異なっていました。後藤象二郎は政府に買収され、板垣退助も政府が三井に出させた資金で外遊に出かけました。そのうえ加波山事件後には暴走する党員を止められず自由党を解党しました。もうひとつの民権派政党の立憲改進党も同じ頃に活動を停止しました。

 

 

 このころから民権運動も新たな段階に入ります。1886年から89年にかけて大同団結運動が展開します。後藤象二郎が先頭にたって「自由党も立憲改進党も民権派は小異を捨てて結集しよう」と呼びかけたのです。

 

 

 さらに1887年には三大事件建白運動もおこりました。これは政府に対し、外交失策の挽回、地租軽減、言論・集会の自由という3つの建白をおこなう運動です。

 

 

 政府はこれを弾圧するために保安条例を制定し約570名の民権家を東京から追放しますが、条約改正交渉を批判された外相の井上馨は辞任に追い込まれました。

 

 

 このときの伊藤博文内閣は大隈重信を外相に起用して反対派の抱きこみをはかります。大隈は約6年ぶりに政府に復帰したのです。

 

 

 この第一次伊藤内閣は五稜郭の戦いで幕府側にあった榎本武揚も逓信大臣に起用しており旧幕府勢力にも配慮していたようです。

 

 

 内閣に関して述べていきます。国会開設の勅諭によって1890年に国会を開くことが決まったため、それまでに憲法を制定しなければならなくなりました。そこで伊藤博文は1882年にヨーロッパに渡り、ベルリン大学のグナイストとウィーン大学のシュタインから憲法について学びました。

 

 

 1年あまりのヨーロッパ滞在を終えて帰国すると憲法の起草に取り掛かる前に国の支配機構の整備に着手しました。

 

 

 1884年には華族令を制定し、華族を増やしてそこから上院の議員を選び出せるようにしました。これは明治維新に功のあった薩長土肥の士族などを華族に格上げしたのです。そのうえで華族のなかで公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵に分類しました。伊藤博文本人はこのとき伯爵になっています。華族は皇室を守るための存在という位置づけもあったため「皇室の藩屏」とよばれました。1885年には内閣制度を創設し、伊藤みずからが初代内閣総理大臣になりました。現在と違って国会で首相を選ぶようなしくみはありません。伊藤自身が自分を首相に選び天皇に任命してもらったのです。そして内閣の各省大臣を伊藤が選びました。ほとんどが薩摩・長州出身者で占められた偏った人選になりました。

 

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