政党の結成と私擬憲法

国会が開かれることが決まると政党の結成が相次ぎました。まずこれまで民権運動をおこなっていた勢力が基盤となって1881年に自由党ができました。板垣退助を党首とするフランス流の急進的な政党です。

 

 

 これに対して1882年に結成されたのが大隈重信を党首とする立憲改進党です。こちらは民権派ではありますが、自由党ほど急進的ではなく、イギリス流の穏健的な政党です。大隈が東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設したのはこの年です。そしてこの二党とは逆に、政府よりの姿勢をとった政党もありました。福地源一郎を党首とする立憲帝政党です。
 当時の民権運動は地方にまで広がり、実に活発なものでした。これらの政党の結成前後には、私擬憲法と呼ばれる憲法草案がさかんに民間で作られたほどです。

 

 

 いっぽう保守的な人々もおり、1882年には板垣退助が岐阜で遊説中に短刀をもった刺客に襲われる事件がおこりました。「板垣死すとも自由は死せず」というのは、この時の言葉とされています。本当に言ったかどうかは定かではありませんが。
 明治十四年の政変で大隈が下野したのを機に、薩摩出身の松方正義が大蔵省の長官になりました。このとき松方がとった緊縮財政を松方財政といいます。

 

 

 明治政府の財政政策については全てここでは述べられませんが、この松方財政で激しいデフレーションがおこりました。このため農産物価格が下落し、農家に大きなダメージをあたえました。なぜなら物価が下落しても地券に書かれた地価が変更されないかぎり地租は今までどおりの金額のままだからです。もちろん政府が地価を下げるなどということが頻繁にあるはずがありません。農民たちは税金を払うために借金に手を出し、そのうえ借金を返済できずに土地を手放さざるをえなくなることがしばしばおこりました。

 

 

 こうして土地を借りて耕作する小作農が増え始めます。逆に土地を集積した地主は、みずからは耕作せず株式や公債などに投資して収益を得る寄生地主となっていきます。

 

 

 こうした松方デフレを背景に民権運動は過激さを増していきました。
まず1882年には福島事件が起こります。県令の三島通庸に道路建設を強要された農民が蜂起したもので、自由党員や農民が約二千人も検挙されました。

 

 

 ついで加波山事件です。自由党員が栃木県令となった三島通庸を暗殺しようとした事件でした。そして起こった秩父事件は埼玉県の秩父で数千人の農民が借金返済の軽減を求めて蜂起し高利貸しや警察、役所を襲撃した事件です。政府はこれを鎮圧するために軍隊まで出動させました。

 

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