自由民権運動の広がりと新時代

1875年の大阪会議で板垣退助は参議に復帰し民権運動は一時下火になりました。しかし板垣はまもなく参議を辞し西南戦争のさなかに立志社は国会開設の建白書を政府に提出しました。

 

 

 こうしてふたたび民権運動が盛り上がりだし、1878年には愛国社が再興され1880年には国会期成同盟と改称して各地から政府に国会開設請願書を送りつけました。政府はまたもや弾圧法令をだして運動をおさえこみにかかりますが、このころ政府内でも国会を開くべきだと意見する人物がいました。これが大隈重信です。

 

 

 1881年、大隈は伊藤や岩倉具視にも相談せず、独断の形で国会の即時開設を左大臣に建議しました。政府内の人間としてはかなり珍しい行動です。大隈には、ともに政府の中心に立つ伊藤を出し抜いてやるという思いがあったのかもしれません。これを知った伊藤は激怒し二人のあいだの亀裂は決定的となりました。そんなときにさらに政府を揺るがす事件が起こります。開拓使官有物払下げ事件です。

 

 

 北海道の開拓事業を終えるにあたって開拓使長官の黒田清隆は開拓使官有物を払下げしようとしていました。現在では競争入札などが行われるべきことですが、このとき黒田は同じ薩摩藩出身の政商である五代友厚らに破格の安値で払下げしようとしました。もちろん五代たちからの見返りが発生していたと考えられます。このことが公になると民権派はこぞって政府を攻撃しました。

 

 

 そのときに伊藤は反撃にでます。君主権の強いドイツ流の憲法を天皇が定めるという欽定憲法の構想を立て大隈を払下げに反対する民権派と通じ合っているとして参議を罷免したのです。それと同時に開拓使官有物の払下げを中止して民権派からの批判をかわし、国会開設の勅諭を出して10年後に国会を開くと発表しました。

 

 

 これは民権派の要求に屈したように見えますが、そうとは言い切れない部分もあります。まず伊藤にとってライバルであった大隈を政府から追い出すことに成功しました。これを明治十四年の政変といいます。その際に大隈と関係があった官僚が多く辞めたため薩長土肥ではなく、薩長藩閥政府が確立したのです。

 

 

 そのうえ国会開設は約束はしたものの実際に開くのは10年後です。しかも憲法制定の主導権も伊藤がにぎりました。当然ですが、民権派が定める憲法にはならないのです。
 開拓使長官の黒田清隆はこれで失脚しますが長州藩出身の伊藤にとってはなんでもありません。こうして伊藤は薩長藩閥政府のトップに立ち、政治の中心に君臨することになるのです。

 

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