日本の帝国主義と大正デモクラシー

ワシントン体制で日本が抑制されてくると日本の中にも不満を持つ人がでてきました。

 

 

日本が行った二十一か条の要求などはかつて欧米列強がやっていた侵略政策と大きな違いはないと主張したのですが、時代は変わってきていました。

 

 

ウィルソンが民族自決をとなえたように表立って強国が他国から権益をうばうことは否決され、体面上だけであっても他の民族を尊重するべきだという風潮が広まっていたのです。遅れて列強の一角にくいこんだ日本としては歯がゆい思いをすることになりました。

 

 

 

 こういった時代に珍しく「小日本主義」をとなえたジャーナリストがいました。雑誌「東洋経済新聞」の石橋湛山です。戦後には首相にもなる人ですが、このワシントン会議に際して次のような記事を書いています。

 

 

日本が中国や朝鮮における権益を放棄すれば世界で一番の「正義の味方の国」となり、植民地を手放さないアメリカやイギリスが恥をかくというのです。当時としては理想論でしかありませんが、のちの戦争放棄の憲法を選択することを考えると深い主張です。

 

 

 清との緊張が高まった1880年代後半から三国干渉をへて日露戦争に勝利するまで国家主義が台頭しました。「臥薪嘗胆」というスローガンもありました。

 

 

 

 ところが大正時代に入るとこれが反転し、「大正デモクラシー」とよばれる民主主義的な風潮が広まりました。これは世界的なデモクラシーの流れが背景となっています。大正デモクラシーの中心にいたのは新たにあらわれたサラリーマンや弁護士・医者などの都市中間層でした。

 

 

 当時の日本は天皇に統治権があるとする大日本帝国憲法に従って動いています。そんな日本で民主主義を主張することはできるのでしょうか?少し理屈じみていますが、戦前の日本を「民主的国家ではなかった」と単純に言い切れない理由がここにあります。

 

 

 政治学者の吉野作造は民本主義をとなえました。吉野は「君主制国家だろうが、民主制国家だろうが、政治というものは民衆の福利を目的としておこなうものだ。だから政策決定は民衆の意向によるべきものだ」と言うのです。

 

 

 

 そして国のしくみがどうであろうと通用するように「民主主義」という言葉を避けて「民本主義」という言葉をつくりました。この考えでいけば、主権が民主にあるという憲法でも民衆の意向を尊重した政治ができます。そして大勢の民衆の意見をひろうためには普通選挙をおこなうべきであり、内閣は議席数の多い政党による政党内閣であるべきなのです。

 

 

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