大久保利通が亡くなった後の政治

 どんどん広がっていく自由民権運動しずめるべく、大久保たち政府は動きます。
板垣と木戸孝允に呼びかけて大阪会議を開き、両者に政府にもどるよう口説いたのです。反対勢力を懐柔しようとしたのです。
 それに対して板垣たちは3つの機関を設置するように要求します。大久保たちはそれを認めました。こうして板垣たちが参議に戻ると民権運動のリーダーが抜けたことで運動は骨抜きになり、愛国社も解体しました。このとき板垣たちが要求したのは次の3つです。

 

@ 元老院の設置。これは憲法草案を起草する機関です。
A 大審院の設置。これは後の最高裁判所になります。
B 地方官会議を開く。これは府知事、県令による会議です。

 

 

大久保はこれらの設置を立憲政体樹立の詔で発表し、いっぽうで政府批判を取り締まる
ための弾圧法令を制定しました。しかしこの大久保利通は西南戦争の翌年、石川県の士族たちに暗殺されます。紀尾井坂の変と呼ばれるものです。こうして維新を行った第一世代が時代から去っていき、次の世代が台頭してきます。中心となったのは伊藤博文と大隈重信です。

 

 

 伊藤博文は長州藩の生まれで松下村塾に学び、尊王攘夷運動に奔走するも井上馨らとのイギリス留学をきっかけに攘夷論を捨てました。新政府では岩倉使節団の一員となります。その際、大久保利通が全権委任状を取りに一度日本に戻ったことがありました。これに同行した伊藤は長州藩の先輩である木戸孝允とは距離を置き始め、大久保との関係を深めるようになり、その後継者のような位置におさまっていったのです。実際に大久保が暗殺された後に内務卿に就いたのは伊藤博文でした。

 

 

 大隈重信は肥前藩の武士の家に生まれ、蘭学や英語を勉強しました。肥前藩は名君と呼ばれた鍋島直正が藩政改革に成功し、雄藩のひとつに数えられますが倒幕の態度を明確にしなかったため維新後は高い地位を得られませんでした。薩摩・長州・土佐の3藩にくらべて影が薄いように感じるのはそのためです。しかし大隈重信は能力を買われて新政府に迎えられ財政再建や外交問題に取り組み、電信・郵便・鉄道などをつくるのにも関わりました。なかでも鉄道建設の際は資金調達に苦しみ、伊藤博文と協力しあって開通にこぎつけました。のちに早稲田大学を創立したことはかなり有名です。征韓論争の際は留守政府の一員だったものの征韓論はとなえず、下野していった西郷隆盛や板垣退助とは違って政府に残る道を選びました。

 

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