西園寺公望とパリ講和会議

第一次世界大戦が英米仏らの連合国の勝利に終わると1919年、パリ講和会議が開かれました。日本からは西園寺公望らが参加しました。

 

 

 実は、この西園寺公望は若い頃に10年間もフランスに留学をしていたことがあります。西園寺は公家の出身でしたが、長い留学のなかでリベラルな思想をもつようになり、同時期に留学していた中江兆民とも親しくなりました。帰国後はいっしょに「東洋自由新聞」を発行したこともあるほどです。

 

 

その後、伊藤博文が憲法調査のために渡欧した際にも同行し、伊藤に認められるようになりました。そしてこれから先、最後の元老として何人もの後継首相を推薦することになるのです。大正から昭和のはじめにかけての重要人物であることは間違いありません。

 

 

 

 さて、パリ講和会議では敗戦国ドイツと連合国とのあいだにベルサイユ条約が結ばれました。この条約の中で日本は山東省の旧ドイツ権益の継承と赤道以北のドイツ領南洋諸島の委任統治権を認められました。

 

 

 しかし、これに中国は反発しました。中国も連合国の一員なのだから旧ドイツ領は自分たち中国に戻すべきであるという主張をしたのです。

 

 

 もっともな意見ではあるのですが、それを察知していた日本が諸外国に根回しをしていたため、中国の主張は認められませんでした。このため5月4日に北京で開かれた学生集会をきっかけに反日運動が中国全土にひろがりました。これが五・四運動です。

 

 

これをうけて中国政府はベルサイユ条約の調印を拒否しました。同じ頃、朝鮮でも反日運動がおこっています。「独立万歳」をさけぶ大規模なデモ行進で3月1日におこなわれたことから三・一独立運動とよばれています。

 

 

 

 パリ講和会議では国際連盟についての話し合いもおこなわれました。提案したのはアメリカ大統領ウィルソンでしたが、最終的にアメリカは議会の反対で加盟しませんでした。いっぽう日本はイギリス・フランス・イタリアと並んで常任理事国の地位を得ました。

 

 

 ただしアメリカのような大国が参加しなかったため、この組織は強い組織としては機能しませんでした。これが原因となって再び大戦が起こることになっていきます。

 

 

 このころウィルソン大統領は大戦中から「民族自決」をとなえていました。「自決」といっても自殺することではなく、それぞれの民族が国家をつくり各民族が自分たちの意志で政治をおこなうべきだという考えで、ロシア革命以後広まりつつあった考えです。

 

 

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