大正の始まりと軍部拡張

 1912年7月、明治天皇が亡くなると明治元年に定められた一世一元の制にもとづき元号が変わって「大正」となりました。1926年までという短い大正時代の始まりです。

 

 

 そのころ陸軍は植民地とした朝鮮半島に設置するための師団を2つ増設することを要求しました。師団とは軍隊の一単位で普通は一万人を超える規模のものです。

 

 

しかし第二次西園寺公望内閣はこれを拒否しました。日露戦争の際の外債の利払いがかさんでいたため師団を増設する余裕がなかったのです。これに怒った陸軍側は陸軍大臣の上原勇作が単独辞職し後任の大臣を推薦しませんでした。

 

 

 

 1900年に定められた軍部大臣現役武官制では陸相と海相は現役の大将・中将にかぎるとしています。陸軍はこの制度を利用して西園寺内閣にストライキを起こしたわけです。

 

 

首相の権限よりも大将や中将の結束力が勝っていた当時は、だれもが陸軍大臣をやらないという手段を用いることができたのです。陸相を欠いた内閣は存続ができず、結局西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。

 

 

 1909年に伊藤博文が死去したあと元老筆頭の地位にあったのは山県有朋でした。元老とは明治憲法に規定されていないものの天皇を補佐し後継首相の推薦など重要政務に関与する人たちです。明治維新に功のあった伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・井上馨・西郷従道・大山巌・松方正義の7人でしたが大正期に桂太郎と西園寺公望の二人が加えられました。

 

 

 

 元老山県はここで桂太郎を3度目の首相に推薦しました。陸軍の横暴で西園寺内閣を退陣させておいて陸軍の長老が自分の後継者を首相にたてる。これはあまりにもわかりやすい意図が秘められています。軍部の拡張は確定的でした。その後、桂首相は議会を軽視し大正天皇に出させた詔勅で政治をすすめました。

 

 

 この動きに反発しておこったのが憲政擁護運動、略して護憲運動です。立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅を先頭にジャーナリストや実業家が桂内閣に退陣をせまりました。

 

 

桂はこれに対抗して新しく政党を結成しようとしました。立憲同士会です。ここには立憲国民党を離党して合流する政治家もいました。それは立憲国民党は今までに政権を主導できたことがなかったため、首相がつくる政党に興味を持ったのです。

 

 

 しかし民衆の力は強く国会議事堂を数万人が取り囲むほどでした。結局桂内閣はわずか53日という短さで退陣に追い込まれました。これを大正政変といいます。初めて民衆が内閣を退陣に追い込んだ事件として有名です。

 

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