樺太・千島交換条約から自由民権運動へ

ロシアとのあいだでは1875年に樺太・千島交換条約を結びました。
 樺太は幕末に結んだ日露和親条約で両国雑居地と定めていた大きな島です。北海道の北側に位置し間宮林蔵が島であることを発見しました。

 

 

 この条約では、その樺太をロシアにゆずる代わりに千島列島のすべてを日本が領有するとあらためました。単純に面積だけを考えると日本にとって損な話です。しかし北海道の開拓事業にあたっていた黒田清隆は「樺太までは開拓の手は回らないのでロシアと良好な関係を築くためにいっそゆずってしまおう」という提案をおこなったのです。

 

 

 江華島事件がおこったのは、この条約調印の四ヵ月後のことです。この条約でロシアとの関係が良化していたためロシアから邪魔されることなく朝鮮での権益を獲得することができたのです。外交政策の一環のことであったと考えられます。ちなみにこの樺太・千島交換条約を結んだ駐露公使は五稜郭の戦いのときに黒田清隆に説得されて降伏した榎本武揚でした。
 そうして対外交渉をすすめているなかで国内では別の動きがはじまっていました。

 

 

征韓論争は政府の要人たちの運命をかえました。下野した5人の参議のうち西郷は郷里の薩摩にもどって若者の指導にはげみます。しかし、残る4人は大久保政権に反発して1874年から自由民権運動をはじめました。

 

 

 板垣退助らは愛国公党を結成し、民選議院設立建白書を政府に提出しました。彼らは大久保利通らの官僚による専制政治を「有司専制」だと批判し、民選議院、つまり国会を開くことを要求したのです。これは五箇条のご誓文で「広く会議を興し」とうたったことが実現されていないことを責めたものです。

 

 

 しかし政府側からすると、この時点で国会は開きたくなかったのです。民衆の意見を聞いたら「税金を減らせ」「今の政治家は辞めろ」と言われる可能性があったからです。欧米列強に早く追いつきたいとあせる政府は、この建白書を無視しました。

 

 

 すると板垣たちは地道な活動を始めます。民権思想を人々に広め、大勢で声をあげていこうとしたのです。板垣が郷里の土佐で立志社を作ったのをはじめとして各地に政治結社がうまれていきました。それらの全国組織が1875年結成の愛国社です。そのリーダーが板垣退助でした。この動きは広まるのが早く、この盛り上がった自由民権運動をしずめるべく大久保政権は動かなくてはいけなくなりました。反対勢力を懐柔し政府に戻そうとしたのです。

 

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