平安京の庶民の生活

 貴族ではない庶民はどのように生活していたのでしょうか。このころ生活に困った人々が道路の片隅に捨てた子どもが犬や鳥に食べられてしまう事件がたびたび起こっていました。そこで朝廷は867年に親が子を捨てることがないよう検非違使に取り締まらせるとともに、捨て子は施薬院で保護するようにという命令を出しました。



 このころ都には病人や孤児を収容する公的な施設として施薬院と非田院がありました。896年には検非違使の下級官人や近衛が京内を巡回して病人・孤児をこれらに収容することが命じられ、930年の疫病の流行では、苦しむ病人を収容しています。都市が発展していくかげでは、厳しい状況のなかで生きていかなくてはならない庶民が増えていたのです。


 いっぽう、貴族や官人につかえて雑用をこなしたり、サーカスのような曲芸を見せる散楽や田楽などの芸能で生活する人々のなかには、今で言えば小学生や中学生ほどの子どもたちも多くいました。


 平安京に住む貴族や庶民にとって、宗教的な儀式はとても重要でした。都市に疫病が広まったり、治安が悪くなったりすると人々は社会の不安をよぶものをケガレと呼んで、そこから逃れようとします。


 ケガレは、病や死など日常の生活をみだす出来事やそのころの人々の知識や考えでは理解できない、外からやってくるものへの恐れからうまれたものです。実際に、伝染病は都の外から入ってくることがありましたから、こうした恐れはますます大きくなっていきました。また、早良親王や菅原道真など、政治上の恨みを持って死んだ人たちが、たたりによって災害や病気をもたらすとも考えられていました。


 貴族たちは、このような不安な出来事から逃れるため、天台宗・真言宗や奈良の大きな寺の僧侶が行う行事に心を寄せます。国家的な大行事から、ちょっとした病気を治すための祈祷まで、様々な仏教行事が宮廷や貴族の家で、年中行われていました。


 このような中、比叡山の横川にいた僧侶の源信が、阿弥陀如来に頼り、死後に浄土に生まれ変わることを願う浄土信仰について説明した「往生要集」をあらわします。仏教では、死後に浄土に生まれ変わることを往生ということがあります。仏の力によって、悩みや苦しみに満ちた穢土(人間が住む世界)から、美しくケガレのない浄土(仏の住む世界)へ生まれ変わろうという信仰が浄土信仰です。すでに空也という僧侶が都で浄土信仰について説いており、往生要集によって、さらに広まったのです。