平安時代の貴族の女性と文学作品 ―「蜻蛉日記」

 藤原道長の妻の倫子は内裏への出入りや儀式の見物など、重要な行事に道長と参加することがありましたが、明子にはこうしたことはありませんでした。ただし、明子の子も公卿になっていますし、明子自身の邸宅もありました。道長が結婚した女性のなかには、さらに身分の低い人たちもいました。このように、このころの上級貴族の男性は複数の女性と結婚することがあり、相手によって異なる扱いをしていたのです。




 道長の父は兼家ですが、兼家の妻のひとりである「道綱の母」は兼家とは一緒に住んでいませんでした。このため、道綱の母は兼家が自分の家に通ってくるのを待たなければなりませんでした。そんな女性の悲しみを描いたのが「蜻蛉日記」です。道綱の母の父は藤原倫寧です。彼は中級貴族で、歌人としても知られていました。道綱の母の妹も同じように中級貴族である菅原孝標と結婚しました。孝標の娘は自分の少女時代から約40年間の様々な出来事を記した「更級日記」の作者として有名です。


 道綱の母は、兼家と結婚した翌年、道綱を生みます。しかし、そのすぐ後から兼家は別の女性と親しくなります。兼家はこの女性を町小路の女と呼んでいました。


 ある日、道綱の母は兼家から町小路の女にあてた手紙を読んでしまいます。道綱の母は、その手紙に和歌を書き込むことで兼家に自分のもとへ戻ってきて欲しいという気持ちを伝えます。しかし、いっこうにその気配はなく、兼家は町小路の女のところに通い始めました。ある夜、兼家が道綱の母の家に来て、しきりに門をたたいたのですが兼家に反省してもらいたいという気持ちから道綱の母はこれを無視します。すると兼家はそのまま町小路の女のところに行ってしまったのです。


 また、兼家には長男道隆を生んでいた第一の妻である時姫がいました。しかし、兼家は町小路の女に夢中になるあまりに時姫のところにもあまり通ってこなくなったのです。そこで道綱の母はライバルである時姫に同情の歌を贈って、互いに慰めあおうとするのでした。


 町小路の女はやがて男子を産みます。しかし、そのころから兼家の心はまた、別の女性へと移り、町小路の女が生んだ男子も死んでしまいました。これを聞いて道綱の母は胸がすっとしたと書いています。


 しかし、それで兼家が道綱の母のもとに戻ってくるわけではありませんでした。このように「蜻蛉日記」には主人公である貴族女性の心の中の細やかな動きまでが詳しく書かれているのです。