彰子と貴族たちの結婚 平安時代

 自分の目の前で兄の伊周が逮捕されるという出来事を悲しんだ定子は出家してしまいました。その後、997年に兄たちの罪は許され、一条天皇は出家していた定子を自分のもとに呼び戻しました。999年には、定子とのあいだに一条天皇の最初の皇子、敦康親王がうまれます。



 これにあせったのが道長です。翌年、女御という位だった彰子を中宮とし、定子を皇后にしました。皇后も中宮も天皇の正式な妻ですから、ひとりの天皇にふたりの正式な妻ができたことになります。その年、定子は出産で体調を崩し、亡くなります。そして定子が生んだ敦康親王は彰子にあずけられることになります。このころ彰子じしんはまだ少女でしたが、敦康親王をかわいがったようです。


 しかし、結局は道長の孫であり、彰子の息子である敦成親王が皇太子になります。彰子はのちの天皇の母になったのです。彰子は夫である一条天皇が亡くなったのち、出家して上東門院となり1074年まで生きました。80年をこえる人生のあいだに子の後一条・後朱雀・孫の後冷泉の各天皇が彰子よりも先に亡くなります。また、晩年にはやはり孫の後三条天皇も位を譲って、ひ孫の白河天皇が即位しています。


 彰子は妹で三条天皇の中宮妍子がはでな宴会や贅沢ばかりしていたのを諫めたことがあります。そのときには道長に厳しい目を向けていた藤原実資も「小右記」のなかで彰子を「賢后」と称賛しています。


 摂政・関白とならんで天皇の後見となり、皇后や中宮になることができる女性は、上級貴族のなかでも、ほんの一握りでした。


 藤原道長の妻、源倫子は左大臣源雅信の娘でした。ふたりが結婚したころの道長は権力者である兼家の息子といっても末っ子だったので、将来はまだ予想できませんでした。倫子の父はこの結婚に反対したようです。しかし、倫子の母藤原穆子が道長を気に入ったので、ふたりは結婚しました。


 結婚したのち、道長は雅信夫妻が住む土御門殿で、倫子といっしょに生活をはじめました。雅信夫妻はしばらくしてから別の住まいに移ります。倫子は土御門殿を親からもらいうけ、道長を婿にむかえたというわけです。こうした形を婿取り婚といい、このころの貴族ではよくある形でした。


 道長には倫子のほかに明子という妻もいました。明子は安和の変で左遷された源高明の娘でした。道長と明子は一緒には住まず、道長が明子のもとへ時々通っていくかたちでした。倫子と明子には同じように子どもが生まれます。しかし、倫子の子に比べると、明子の子に対する道長の扱いはあきらかに下でした。