平安時代の貴族の仕事 

 885年、藤原基経が「年中行事御障子文」というついたてを光孝天皇に献上しました。このついたては内裏の清涼殿に立てられます。場所は清涼殿の南の端にある「殿上の間」の入り口のそばでした。そこには1年のあいだに朝廷が行う行事が記されていました。行事のなかには、神事や仏教に関する行事もあれば、毎年決まった日に行われる宴会である節会などもありました。また、政治の上で大切な行事もあります。このころの貴族や官人にとっては、これらすべてがおおやけの行事、つまり「公事」でした。



 この時代には、公事をきちんと行っていくことが貴族や官人にとってはなにより大切な仕事でした。貴族たちは、それぞれ熱心に儀式や政治のやり方を漢文の日記に記録・整理して、子孫に伝えようとしました。藤原道長も、20年以上にわたり、こうした日記「御堂関白記」を書き残しています。また、道長と同じころに活躍し、豊富な知識で知られた右大臣藤原実資は「小右記」という非常に詳しい日記を残しています。


 貴族によって作られた儀式書もありました。源高明の「西宮記」や、道長と同じ時代に生きた公卿藤原公任の「北山抄」などです。


 公事に参加するときには、貴族たちはこうして積み上げられてきた作法、しきたりについて先祖の日記や儀式書などを読んだり、他の貴族に質問したりしながら勉強しました。


 現代の私たちからすれば、政治とはあまり関係なさそうに見える儀式や宗教的な行事も、平安時代には公事として行われていました。また、儀式や宗教的な行事をおこなう準備じたいも公事として扱われました。さらに、地方からの申請への対応、官人の勤務評定や人事、飢饉・疫病・反乱・戦争などへの対策といった私たちからみても政治として理解しやすい仕事も当然公事として行われていました。


 政治の上で、一番うえの立場だった天皇や太政官の主な仕事は、こうした公事を行うといきに中央の官人や諸国から判断を求められる事柄について決定をくだすことでした。


 このように、天皇や太政官、さらに官人たちがおこなう公事によって国家は運営されていました。


 藤原氏が摂政・関白の地位を独占した摂関時代には、朝廷の政治や官人たちのしくみは律令国家のもともとの姿とはかなり変わっていました。しかし、摂政や関白になる人物を出した摂関家が、自分たちだけで国を勝手に動かしていたわけではなく、様々な貴族たちが、多種多様にわたる仕事を分担して行っていたのです。