平安京という都市の光と影

 平安京は、平城京・長岡京などと同じく律令国家がつくった政治的な都です。中央北部に世界の中心としてそびえる大極殿、そこから南をむく天皇の視線の先には京の中央にはしる幅広い朱雀大路がありました。また、朱雀大路をはさんで左右に対称の整然とした条坊が広がっていました。こうした都市計画は律令国家の理想の姿を示すものとして国家が作ったものです。人々が自然に集まってこのような整然とした都市が出来上がったわけではありません。



 しかし、国家や社会の変化によって平安京の姿も変わってきました。9世紀後半には左京のなかに次々に貴族たちの大邸宅が建てられていきます。彼らに仕える人々もその周りに住み、左京は多くの人々が集まる場所になりました。町並みは平安京の範囲の外にあふれ出していきます。そのいっぽうでさびれてしまった所もあって、左右対称の都の姿は変わっていきました。


 平安京には、多くの人々が集まってくることによっておこる問題がありました。ゴミや排泄物はもちろん、人間や動物の死体などが町中に放置されることも多かったのです。さらには病人や身寄りのない人々、貧しい人々があちこちに集まっていました。ときには、国家が税を軽くしたり国家や僧侶たちが貧しい人々に食料を寄付したりして、こうした問題を解決しようと試みたこともありました。しかし、多くの問題は簡単には解決しませんでした。


 このころはたびたび、天皇の住む内裏に野犬が子供の死体の一部をくわえて運んでくるという事件まで起こりました。こうした事件からは、庶民の子供たちが都で生きることの大変さ、動物たちが都をうろついていた様子、また、内裏の警備態勢が厳しくなかったことなど色々なことがわかります。


 こういった事件が起こった時に貴族や官人が一番気にするのは庶民の生活よりも、これによって宮廷の仕事が中止されたり延期になってしまうことでした。


 このころの貴族たちは、自分たちに「死」を連想させるような出来事があった場合には一定のあいだ職務を休まなければ自分によくないこと起こると考えていました。都では皇族や貴族の邸宅でさえ強盗に襲われることがあり、ときには殺害までされることもありました。また、都では放火と疑われる火事も多かったのです。


 こうして左右対称の整然とした平安京はだんだんと乱れていきました。しかし、それは活気あふれる新しい時代の始まりを表すものでもあったのです。