藤原道長と宮廷の変化

 藤原道長の娘の嬉子が、のちに後朱雀天皇になる皇太子と結婚しました。嬉子が産んだ皇子はのちに後冷泉天皇になります。藤原道長は結局3人の天皇の祖父になったのです。



 息子の藤原頼通を後継者にしたあとも藤原道長は政界を支配しましたが、晩年には仏教に心をかたむけて法成寺という大寺院を造営します。やがて藤原道長は重い病気にかかり1027年、法成寺の阿弥陀堂で大勢の僧侶が唱える念仏のなか、金色の阿弥陀仏に結びつけた5色の糸を握りしめて亡くなったと伝えられています。62歳でした。


 藤原道長は約30年間にわたって政界を支配しましたが、何事も力で押し切るような独裁者ではありませんでした。藤原道長は天皇ともできる限り協調し、太政官でともに政治を行う公卿たちの意見も尊重しようとしました。いっぽうで摂政や関白になれるのは藤原道長の子孫以外には考えられないというようにもなりました。これ以降、藤原道長の子孫の家がらだけが摂政や関白の職を独占していくのです。


 天皇や摂政・関白の下には彼らの決定や様々な決まり・しきたりにそって書類を作ったり整理したりする官人たちがいました。こうした官人たちの世界には9世紀後半から10世紀にかけてどのような変化があったのでしょうか。


 このころには律令に定められていない役職が政治を行う上で重要になっていました。こうした役職を令外官といいます。令外官は奈良時代にも設けられていましたが、平安時代に発展した重要な令外官に蔵人所と検非違使があります。


 蔵人所は天皇の秘書官でもあり、天皇家の経営機関でもあって太政官とならぶ重要な組織へと成長しました。


 検非違使は設置されたときは平安京や畿内などの治安をたもつ役割を果たしていました。10世紀以後、その役割はいっそう大きくなって、平安京における治安維持・裁判・刑罰・行政や、地方への治安維持に関わる出張など幅広い仕事をするようになっていきます。


 天皇や摂政・関白、太政官を頂点とする朝廷のもとで、官人たちが働いているという形そのものは律令国家がはじまってから変わっていません。しかし、彼らが働く役所の様子は変わっていったのです。


 律令制度の最初のころに設けられた役所が実際の仕事を失って衰えていくあいだに、そこで働く官人たちに給与が支払われなくなることもありました。こうしたこともあって、中・下級役人・下級官人たちが、中央の有力者の家に仕える「家人」になることが次第に多くなっていきました。