藤原道長の栄華 延喜の治

 延喜の治のころになると、もはや律令国家のもとの仕組み通りに国家を運営することが難しいことは明らかでした。914年には参議の三善清行が醍醐天皇から意見を求められて「意見封事十二カ条」を提出しました。そこでは戸籍制度がいきづまっていることや官人への給与への支払いが滞っていることなど、国家がかかえている問題点が鋭く指摘されています。



 即位したとき、朱雀天皇は幼かったので、藤原忠平が摂政になりました。さらに朱雀天皇が成人すると忠平が関白になります。


 946年、朱雀天皇は弟の村上天皇に位を譲ります。村上天皇の時代には歴史書・法典・儀式書の編纂や貨幣の鋳造など、律令国家が続けてきた事業が引き続き試みられました。また、村上天皇の時代の後半には、関白をおかず天皇が自分で政治をおこなったために年号ととって「天暦の治」とよばれます。この時代は醍醐天皇の「延喜の治」とならんで理想的な時代とされました。


 しかし、村上天皇が関白を置かなかったといっても藤原氏北家の勢力はこの時代でもおおきなものでした。


 また実際の国家のしくみは、律令のもとの決まりからはすでに大きく変化していました。律令国家が続けてきたいろいろな事業も、ほとんどは村上天皇の時代で終わり、それ以後は行われませんでした。そのいっぽう、国家の財政などの面では新たな仕組みが出来上がっていった時代でもありました。


 969年、安和の変とよばれる事件が宮廷を揺るがします。左大臣源高明が、謀反の罪で大宰府に流されたのです。この事件は藤原氏が高明の力を奪うために行った陰謀だと言われています。


 安和の変ののちは藤原氏北家のなかで摂政・関白の地位が争われるようになりました。藤原氏のうち、ふさわしいと考えられたものが摂政や関白に就任したのです。このように摂政・関白が天皇と協力し、太政官を中心に行う政治を摂関政治といいます。


 やがて、藤原道長の兄の子の伊周と道長が摂政・関白の地位をめぐって争います。この争いに勝った道長が政治の上で関白と同じ権利を持つ内覧という役職につきます。道長は内覧についてから約30年間にわたって権力を握りました。


 道長は入内した自分の娘と天皇とのあいだに皇子たちが生まれていくという幸運にも恵まれました。1018年には道長の娘の威子が後一条天皇の中宮になります。これで一条天皇の中宮彰子をはじめ、道長の娘のうち3人が中宮になったことになります。道長の権力はますます強くなっていきます。