宇多天皇の政治と延喜の治

 光孝天皇の子で887年に即位した宇多天皇は、藤原良房の養子で、良房の跡を継いで政界の実力者となった基経との関係を重視しました。そして即位したのちに基経に関白を命じます。関白とは成人した男性天皇を助けて政治を行う地位です。基経は光孝天皇のもとですでに関白と同じ権限を持っていたのですが、このとき宇多天皇の命令のなかで初めて関白ということばが使われました。



 基経が亡くなったのち、子の藤原時平が後継者になりました。しかし宇多天皇は時平だけでなく、菅原道真や藤原保則などの有能な官人たちを積極的に用いました。良房・基経のように藤原氏北家が政治を動かしていくのではなく、天皇が側近を活用しながら自分で政治を動かそうとしたのです。


 897年、宇多天皇は醍醐天皇に位を譲ります。宇多天皇は醍醐天皇の補佐を藤原時平と菅原道真に任せました。899年には二人が左大臣・右大臣にならびます。しかし901年、道真は突然九州の大宰府に左遷されます。道真が自分の娘婿である醍醐天皇の弟を即位させようとたくらんだというのが理由でした。道真は失意のうちに大宰府で亡くなります。


 宇多天皇は藤原氏北家をおさえて、官僚や側近を使って自分で政治を行おうとしましたが、実現はしませんでした。


 一方、醍醐天皇は藤原氏北家の時平との協力関係を作り出すことで、自分で政治を行うことができました。醍醐・時平政権は902年、延喜の荘園整理令とよばれる諸法令を出します。これらは中央の有力者と地方の富裕な人々との結びつきをおされ、中央の有力者が私的に所有する田地がふえることを防ごうとした法令です。


 909年に時平が亡くなると太政官の実力者は時平の弟の忠平に代わりました。さらに923年から925年にかけて醍醐天皇の皇太子が次々と亡くなります。宮廷社会の人々はこれを菅原道真の怨霊のせいだと考えました。そして道真を左遷する命令などを取り消し、道真の名誉を回復しました。


 しかし930年、さらに事件は起きます。このころの天皇が日常生活をおくり政務の場にもなっていた清涼殿に落雷があり死傷者がでたのです。


 醍醐天皇は驚きのあまり病気になり、8歳の朱雀天皇に位を譲ったのちに亡くなりました。


 醍醐天皇は法典「延喜式」を作る際に自分でかなり細かい手直しとしたとも言われています。また、法典の編纂や班田収授など、かつて行われていた事業を再び行いました。さらに古今和歌集の編纂など文化面にも力を注いだことから、この時代はのちに「延喜の治」とよばれ、天皇が政治を主導した理想的な時代と言われました。