応天門炎上

 ある日、平安宮は大騒ぎになっていました。大きくそびえたつ朱塗りの門からは、真っ黒な煙があがり、炎が音を立てて噴き出していました。風下では舞い散る火の粉が風に乗り人々の頭の上に降りかかっていました。あわてふためく人々や逃げ出す人もいます。風上では立ち止まって火事の様子を眺める人々もいました。



 12世紀につくられた絵巻物「伴大納言絵巻」には、このような場面が描かれています。この絵巻は866年、清和天皇の時代に起こった、実際の事件をもとにしています。燃えているのは朝堂院の正門にあたる応天門です。このころの朝堂院はすでに日常の生活の場ではなくなっていましたが、天皇の即位の儀式などが行われる重要な場所でした。その正門が火災にあったのですから大事件です。しかもその原因は放火でした。この事件の背景を見ていきます。


 850年に仁明天皇が亡くなると、文徳天皇が即位します。文徳天皇は病弱だったとも言われ、政治の上では右大臣藤原良房のほうが、天皇よりも強い力を持っていました。政治や儀式の場にも天皇が姿を現さないことが増えてきます。紫宸殿で天皇が日常的に政治を行うことは文徳天皇のときになくなったとされています。


 文徳天皇のあと、幼い清和天皇にかわって国政を行ったのは太政大臣になっていた藤原良房でした。


 こうした状況の中で応天門の炎上事件は起こりました。はじめは大納言伴善男の告発で左大臣源信が犯人とされました。しかしのちになって真犯人は伴善男自身であるという告発があり、結局、伴善男が流罪となります。源信を犯人だと考えていた右大臣藤原良相も、この事件で力を失いました。


 一方、良房は清和天皇からあらためて正式に摂政に任じられました。摂政とは天皇にかわって政治を行う地位のことをいいます。こうして良房の力はますます大きくなります。


 また、876年4月には桓武天皇が平安京に都を移してからずっと都の象徴であった大極殿が炎に包まれました。10年前の応天門に続き、律令国家でもっとも重要視された建物が焼け落ちたのです。


 同じ年の5月、桓武天皇が眠る山陵に使いが送られ、清和天皇からの言葉が告げられました。


 「桓武天皇が国の象徴として、また官人や万民が天皇をあおぐ場として建てた大極殿が焼けてしまった。この嘆き悲しみはかぎりない・・・」


 それからしばらくして清和天皇は位を退きました。跡を継いだ陽成天皇は行いが粗暴であったとされ、すぐに仁明天皇の子の光孝天皇が位につきました。