幣帛とは 嵯峨天皇時代の持ち帰られない幣帛とは

 9世紀初め、嵯峨天皇の時代のことです。律令国家の重要な宗教儀式である祈年祭を行うにあたり、各地の神社を管理する祝部たちが、都にある神祇官のもとへ呼び集められました。



 その年の豊かな収穫を祈る祈年祭の儀式では、幣帛という神へのささげものを祝部たちに分け与えます。幣帛には布などの繊維製品や、食べ物・酒のほか、木や紙で作られた幣などが含まれていました。祝部たちは、これをそれぞれの神社へ持ち帰り、神にささげてその年の豊作や無事を祈るのです。ところが、この年の祈年祭では儀式が終わった後、だれも持ち帰らなかった幣帛が神祇官の庭に100以上も残ってしまいました。


 祈年祭は国家が祭祀を通じて天皇の権威を地方に行きわたらせる重要な儀式です。にもかかわらず多くの祝部たちが欠席するとは、どうしたことでしょうか。まるで天皇の権威を全国の神々にまで行きわたらせようとした国家の祭祀が衰えてしまったように見えます。しかし、そうではありません。朝廷が公式に認めた地方神社の数は増えていましたし、平安時代に入ってからのほうが天皇が神々に位を授けることは以前よりも多く行われていました。つまり、地方の神社に対する国家の支配力が弱まっていたわけではないのです。


 幣帛を受け取りに都にやってくる祝部たちは郡司と同じように地方社会を支配していた伝統的な豪族でした。しかし、祝部たちのような伝統的な豪族たちが地方を支配するという仕組みが変わってしまったので、彼らが都まで幣帛を取りに来ることがなくなったのです。それに代わるように地方では、国司が任期の初めにそれぞれの国の神を祭るようになります。これも地方社会で国司の力が強くなっていたことを示しています。


 このころの地方における信仰の変化にはどのような変化があったのでしょうか。 奈良時代の8世紀なかば、聖武天皇の命令で全国に作られた国分寺は鎮護国家を目的にしていました。いっぽうで地方豪族たちも自分自身やその一族のために私的な寺を建てました。こうした寺が国家から公式に認められることもありました。これを定額寺といいます。



 国分寺・定額寺のほかにも地方には寺や仏堂が多くありました。地方の人々が住む集落のなかから、このような寺や仏堂の跡が見つかっており、「寺」などと書かれた墨書土器も出土しています。地方の大小の寺や仏堂には、中央の大きな寺や国分寺の僧侶もやってくることがありました。