唐・新羅・渤海の滅亡

 日本は新羅の混乱に巻き込まれることを避けるため、新羅人が日本国内へ移住するのを禁止すると同時に新羅人との交易活動を制限するようになります。交易活動が制限されたことや新羅がますます混乱したことから、9世紀後半には新羅人の一部が海賊となり日本船を襲う事件もおきています。日本は警備を固め、神社で外敵退散を祈りました。



 新羅とは対照的に渤海との外交は安定して続いていました。しかし、日本から使いを送ったのは811年が最後でした。その後は、渤海のほうから貿易を主な目的とする使いが来るようになります。来航の回数や人数が増えすぎ、制限が設けられたほどです。渤海からは毛皮・薬用人参・蜂蜜などが日本に入ってきました。日本からは繊維製品や金・水銀などが輸出されました。


 唐では9世紀後半に大きな反乱が続きました。なかでも875年から884年に塩の密売人黄巣が主導した反乱は唐王朝にとって決定的な打撃になり、907年についに唐は滅んでしまいます。


 いっぽう926年には中国東北部の強い勢力を持つようになっていた契丹が渤海を滅ぼしました。朝鮮半島でも9世紀末から騒乱があいつぎ、後百済、新羅、高麗の3国に分裂した時代が続きます。こうしたなか、935年には新羅が滅亡し、高麗が半島を統一します。


 唐が滅んだあとの中国では大小の諸勢力が次々に政権をたてました。中国が宋王朝によってまとまりを取り戻すのは979年になってからでした。


 こうして10世紀のあいだに日本を除く東アジア諸国の顔ぶれは一斉に変わっていったのです。日本は宋・高麗のどちらとも正式な国交を結びませんでした。そのおもな理由は東アジアの分裂と混乱に巻き込まれないようにするためです。日本だけが国名を変えずに続いたことには、こうした政策があったおかげもあったようです。


 日本の律令国家と東アジアの国々とのあいだに国家間の交流がなくなったというだけでなく、外側の世界に対する日本の律令国家の考え方も変わっていきました。


 中国では天子(皇帝)を中心に、その支配が直接及ぶ国家の内側と、直接及ばない外側を区別する考え方がありました。中国のまわりに文明の劣る国々や民族がおり、それらの国々は文明のすすむ中国に対して使いを送ってくるべきだと考えられていたのです。日本の律令国家もこれを取り入れ、新羅などを自国より政治や文化のおとる国、蝦夷・隼人・南島世界の人々を異民族として国家の外側として位置づけてきたのです。