唐風化政策と東アジアの変動

 桓武天皇は中国の皇帝にならって礼や法とよばれる秩序によって官人たちに支えられた国家の頂点になることを目指しました。嵯峨天皇の唐風化政策はこうした桓武天皇の考え方を引き継いだものです。



 天皇・皇太子・皇后の服に関する決まりは、やがて9世紀後半の清和天皇の時代に編纂された法文に取り入れられました。天皇についても文章として法律に定められるようになったのです。天皇も礼や法とよばれる秩序のなかの存在になっていきました。


 藤原良房・基経の時代である9世紀後半にも、唐風文化はさらに深められていきました。詩文だけでなく、儀式所や法典、国史の編纂も続けられていました。一方では漢詩の表現の影響を受けながら和歌が再び盛んになり、10世紀初めには「古今和歌集」が成立します。


 中国の文化は平安時代を通じて日本に取り入れられていましたが、国家間の交流である遣唐使は最澄と空海が同行した804年と、円仁が同行した838年の2回しか派遣されていません。その後、菅原道真らが遣唐使に任命されたものの、派遣されないまま中止されています。遣唐使派遣の中止からほどなく唐王朝は滅んでしまいました。


 このころ東アジアはどのようになっていたのでしょうか。755年に起こった安史の乱により、新羅を支援していた唐王朝が弱体化すると考えた藤原仲麻呂は、新羅への侵攻計画をたてました。しかし、その後、東アジアの情勢が変化したことと仲麻呂が権力を失ったことで侵攻計画は中止となります。


 安史の乱以後、唐王朝の体制は大きく変わりました。各地に唐の支配を受けない地方勢力がうまれ、日本の手本になった軍事・租税・官僚の制度は変わっていったのです。唐の北のモンゴル高原ではウイグルが、また、西のチベットでは吐蕃が力を伸ばしました。


 いっぽう、新羅は8世紀末から内乱がつづき、混乱していきます。平安時代には新羅から正式な使者は来なくなりましたが、商人の来航は続いていました。新羅の混乱は日本にも及び、新羅の難民が日本にやってくることもありました。


 838年の遣唐使派遣に先立ち、日本は新羅に対して遣唐使船が難破した場合などには援助してくれるように使者を通じて頼んでいます。これに対して新羅は対等な礼で返答をしました。新羅を格下の国として扱ってきた日本はこの返答に怒り、両国の関係は悪化します。


 840年代には唐の北のウイグル、西の吐蕃も勢力を失ってきます。新羅もさらに混乱を深めました。