法による政治と唐風文化

 官人たちが実際に仕事をおこなうためには律令だけでは規定が大まかすぎて十分ではありません。そのため、律令の下にもっと細かい規則が必要でした。また、律令を補ったり、社会の実情にあうようにあらためた法令を出さなければならないこともありました。律令の制定からすでに100年がたち、各役所ではこれまでに作られてきた規則や先例を参考に、仕事を進めていました。また、天皇や太政官が決定をくだす根拠となる法令も増えていました。



 桓武天皇の息子たちの時代には律令を補足したり手直ししたりする法令をあつめた「格」、律令をおぎなう細かい規則を役所ごとに分類・整理した「式」がまとめられました。儀式の手順を記した儀式書の編纂も行われました。


 儀式や政治に関する細かい決まりをまとめることはもともと中国から輸入された法律を深く理解し、漢文で文章を書くことのできる学者や官人が増えていたからこそ実現できた事業でした。この時代の貴族や官人にとって、唐の文化を教養として身に着けていることが仕事のうえでとても重要だったのです。


 このころさかんだった漢文学も、こうした時代背景からうまれてきたものです。「凌雲集」「文化秀麗集」「経国集」といったといった漢詩集が、天皇の命令で編纂されました。嵯峨天皇自身が空海・橘逸勢とならび、唐風の書の大家とされ、三筆のひとりに数えられていることからも、この時代に中国的教養が重要視されていたことがわかります。


 国家が官人を育てるためにおいていた大学などでは、儒教の教育が重んじられました。貴族たちは一族の子弟の勉学を助けるため、大学別曽をもうけました。おもな大学別曽には藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院があります。


 また、嵯峨天皇の時代を中心に、唐の制度を採り入れる政策がすすみました。天皇や朝廷につかえる男女の服を唐風にあらため、礼儀作法も唐風になります。さらに官の殿舎や門の名前も唐風にあらためられました。


 嵯峨天皇のこうした政策は、たんに儀式や服装を中国風にするだけではありませんでした。天皇に仕える官人たちが中国のように合理的な法を重んじながら政治を行うよう意識が変化することを期待しておこなわれたのです。


 もともと日本の律令には天皇について定めた条文はほとんどありませんでした。天皇は法に縛られない存在であり、その権威は神々の子孫であるという神話に支えられていたのです。