律令国家の再編

 天皇のもとに政治の最高機関として太政官がおかれ、そこに属する左大臣、右大臣や大納言、中納言、参議らによって、様々な政策が話し合われます。彼らは太政官のなかでも議政官と呼ばれるひとたちです。



 同じ太政官のなかには、少納言、弁官、外記、史という事務官もいます。彼らは、中央や地方の役所から太政官に提出される報告書や申請書などを整理・審査したり、太政官から中央や地方の役所にだす書類の作成や毎日の政治を記録したりしました。仕事は地味ですが、こうした事務官たちは重要な役割を果たしました。


 太政官のもとには、奈良時代から引き続いて8つの省がおかれ、さらにその下に仕事の内容に応じた下級官司が置かれました。各官司では長官・次官・判官・主典という「四等官」が中心となり、そのもとで多くの下級官人が仕事をしていました。


 平安時代にはいくつかの役所がひとつにまとめられたり、律令にさだめられていない新しい役所がつくられたりしました。のちには国家のしくみが変化するとともに、八省や下級官司の多くが実際にはあまり仕事のない状態になってしまいます。しかし、桓武天皇とその息子たちの時代である9世紀前半にはまだ、しっかりと仕事は行われていました。


 平安宮では、天皇の住む空間である内裏と大極殿・朝堂院とは離れておかれていました。大極殿はもともと大きな儀式のときに天皇があらわれる建物で、天皇が政治を行う場であったとする説もあります。しかし、天皇が儀式や政治を行う場所が大極殿だとすれば、大極殿が内裏と離れていることは天皇にとっては不便です。どうしてこのような配置にしていたのでしょうか?実は平安宮の時代には天皇が実際に政治を行う場所は朝堂院に面する大極殿ではなく、内裏のなかだったのです。


 内裏のなかで、桓武天皇が政治を行った建物は後に紫宸殿と呼ばれるようになります。平城・嵯峨・淳和・仁明たちは紫宸殿にでて日常の政治を行っていました。


 しかし、9世紀後半から10世紀になると天皇が紫宸殿で日常の政治を行うことはあまりなくなり、天皇の住まいを兼ねた清涼殿に政治の場が移っていきました。


 このように平安時代を通じて天皇が政治を行う場所は本来の公的な場所から、天皇が日常生活をおくる私的な場所へと変化していったのです。つまり、政治の場と住居がひとつになっていったと言えます。


 また、議政官をはじめとする太政官が実際に政治を行う場所も次第に内裏へと近づいていきました。