最澄の弟子の円仁は最澄が唐にわたってから約30年ぶりの838年の遣唐使に従って唐にわたり、10年近くになる詳細な旅行記「入唐求法巡礼行記」をあらわしました。円仁は下野国出身で、しばらく地元で修行していましたが、やがて比叡山に入り、最澄の弟子になったのです。



 唐にわたった円仁は最澄も訪れた天台山への巡礼を望んでいましたが、唐の官人からは認められませんでした。そこで円仁が身を寄せたのは山東半島の先端にある赤山法華院という寺院でした。この寺院は、日本とも交易をおこなっていた新羅人の張宝高が建てたものです。張宝高はこのころ新羅国王にも影響力をもつほどの有力者でした。


 円仁は、有名な霊地だった五台山で、天台の教えについてのいくつかの疑問を解決し、仏教関係の書物を書き写しました。さらに彼は唐の都である長安に行くことを決意し、そこで密教を体系的に学びました。


 ところがその後、唐で仏教が弾圧される事件が起こります。このとき唐の皇帝だった武宗が仏教と対立関係にあった道教を信じていたことから、仏教の僧侶に、僧侶をやめて俗人にもどるように命じたのです。このため、円仁は帰国を決意します。帰国後の円仁は、藤原良房の支援もあり、仏教界での延暦寺の地位を確かなものします。また、天皇のための祈祷も許され、天台宗と朝廷との結びつきを強めました。854年には天台宗の代表者である天台座主になり、10年後に亡くなりました。


 円仁のあとには天台宗の僧である円珍も商船にのって唐にわたり、密教や仏教についての書物を新たに輸入するなど、ゆたかな成果をもたらしました。やがて円仁の流れは延暦寺を本拠とする山門派、円珍の流れは近江国大津にある園城寺を本拠とする寺門派となり、天台宗を二分する勢力になりました。


 密教の影響は、仏教関係の絵画や彫刻にもおよびました。密教の世界観をあらわした曼荼羅や不動明王像、一本の木から彫られ神秘的で重みを感じさせる一木造りの仏像などがさかんにつくられます。


 曼荼羅では東寺両界曼荼羅などがよく知られています。また、不動明王像では黄不動として知られる園城寺不動明王像などが特に有名です。密教では修行の障害や仏教に対する敵をねじふせるため、不動明王のような怒りの表情の仏像が多く作られたのです。


 天台宗や真言宗は山の中での修行を重んじていたので、山中の地形に応じた建物を配置した寺もたくさん建てられました。山での修行は山の神々への信仰と結びつき、のちに修験道として成立していきます。