空海は讃岐国でうまれ、上京して官人を目指していましたが、やがてその道に満足できなくなり僧侶になりました。四国の山々で山林修行にはげみ、そのあいだに仏教が儒教や道教よりも優れていると主張する「三教指帰」を書きました。「三教指帰」から数年後の804年に空海は遣唐使に従って唐にわたります。



 空海はそのころの唐で密教の第一人者だった僧恵果から長安で密教を体系的に学び、その教えを受け継いでいました。仏教の一つである密教は、直感的に仏と一体になることを重視する教えです。そのころは最澄のほうがすでに桓武天皇に気に入られていたこともあり有名な存在でした。それでも、やがて最澄は密教を深く学んできた空海から教えを受け、密教を学ぶ上での弟子のようになっていきます。


 しかし、最澄と空海の関係はしだいに冷え切っていきます。空海は経典を学ぶといった理知的な理解だけでは密教を本当の意味で身につけることはできないと考えていました。彼は神秘的経験によって身につけた真言密教こそが最上の教えだと主張したのです。そのうえ、空海のこうした主張にひかれた最澄の弟子が空海に弟子入りしてしまうという事件が起こりました。


 この事件ののち最澄は東国への布教に力をいれていきます。しかし、そこでは他の宗派がすでに布教を行っており、なかには最澄の布教の前に立ちはだかる僧侶もでてきます。法相宗の僧侶で陸奥国会津にいた徳一がその代表です。両者は仏教によって人々が救われる方法などについて激しく論争します。


 東国から都に帰った最澄にはさらに試練が待っていました。このころ正式な僧侶になるまでには何段階もの関門がありましたが、最澄の率いる天台宗には独自に正式な僧侶を認めることが許されていませんでした。正式な僧侶として認めてもらうためには平城京の東大寺、下野国の薬師寺、大宰府の観世音寺にある戒壇で戒律を受ける必要がありました。戒律とは僧侶が守ると誓わなければいけないきまりです。


 最澄は伝統的な仏教勢力に頼らず、独自に弟子に授戒できることができる戒壇の設立を目指し、平城京の僧侶たちと激しく論争をしました。比叡山延暦寺に独自の戒壇をもうける許可がおりたのは822年に最澄が亡くなったときでした。


 そんな最澄とは対照的に空海は平城京の寺院とも良好な関係にありました。嵯峨天皇からの信頼も厚く、816年には高野山金剛峰寺をつくることが認められ、823年には平安京内の東寺が空海に与えられたのです。