敗戦国となった西ドイツと日本の違い

日本政府はポツダム宣言を通じて、戦後の朝鮮の人々に責任を持つことを定めたカイロ宣言を受け入れました。しかし、日本政府はそれを真剣に考えてはいませんでした。ポツダム宣言を受け入れるにあたって日本政府が強い関心を持っていたのは昭和天皇を中心とした政治のしくみが残せるかどうかという点だったのです。

 

 

 

戦後、軍国主義から解放されて色々なことが自由に発言できるようになると、戦争の真実を知ろうとする議論が起こりました。そのなかには天皇は戦争に対して責任があるのではないかという、天皇の戦争責任を問う声もありました。また外国からも天皇には戦争責任があり、退位すべきだという批判がでてきました。

 

 

 

しかしアメリカは占領を問題なくすすめ、アメリカに有利な状況をつくりだすためには天皇を利用したほうが良いと考えました。この点で天皇を中心とした政治のしくみを残したい日本政府とアメリカの考えは一致したのです。そのようななかで、1946年1月、天皇は自分が神の子孫であることを否定する宣言をだしました。戦争が終わるまでとは違う存在になったと主張することで、戦争責任に関する批判を抑えようとしたのです。天皇はそれから8年をかけて沖縄を除く全ての都道府県をまわりました。

 

 

 

そのいっぽうで、植民地だった朝鮮や台湾のこれからについて、また戦後の朝鮮に対する日本の責任についての議論はほとんどおきていませんでした。日本政府は戦前まで日本本土にいた朝鮮人・台湾人に認めていた権利を制限するようになります。戦前の日本本土にいた朝鮮人・台湾人の男性には帝国臣民として参政権が認められていました。国・地方の選挙に投票することも立候補することもできたのです。朝鮮語による投票もできました。

 

 

 

それに対して1945年12月には在日朝鮮人・台湾人の参政権が停止されました。このとき、日本人女性の参政権が認められるなかで、在日朝鮮人・台湾人は選挙への投票も立候補もできなくなってしまったのです。次の大きな制限は1947年5月の日本国憲法施行の前日でした。外国人登録令がだされて、朝鮮人・台湾人は「当分の間」、外国人とみなされたのです。

 

 

 

同じく敗戦国となった西ドイツ(ドイツ連邦共和国)では、自分たちの国内に住む、旧植民地の人々に対して国籍を選ぶ権利を保障し、西ドイツ国籍も取れるようにしました。同じ敗戦国でも、旧植民地の人々に対する政策において、日本と西ドイツでは大きな違いがあったのです。

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