ポツダム宣言

日本が受け入れたポツダム宣言の内容には、日本を侵略戦争へと導いた軍部などの勢力を取り除くことや、戦争犯罪人を処罰すること、戦争に対する責任として外国に賠償を行うことなどがありました。

 

 

 

ポツダム宣言にはさらに、日本がカイロ宣言に従うことも含まれていました。1943年11月エジプトのカイロにアメリカ、イギリス、中国の首脳が集まって、戦争が終わったあとの日本の扱い方について話し合いました。

 

 

そこで決まったのが、日本に無条件降伏をもとめ、満州や台湾などを中国に返し、朝鮮の人々を奴隷状態から回復して、朝鮮に自由と独立がもたらされるようにすることでした。これがカイロ宣言です。カイロ宣言にしたがうことを約束したということは、大日本帝国が崩壊したあとも日本は朝鮮の人々に対して責任を負ったことになります。

 

 

戦争犯罪人の追及と重い賠償に加えて、植民地にしていた朝鮮が回復するようにつとめるのも日本の課題になったのです。

 

 

 

1945年9月2日、日本は降伏文書に調印し、ここから占領がはじまります。日本側は重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長が調印し、連合国側はマッカーサー最高司令官らが調印しました。しかし、小笠原諸島、沖縄などでは、すでにその前からアメリカ軍による占領がはじまっていました。

 

 

 

沖縄と日本本土の占領は、大きく違っていたとされます。沖縄ではアメリカ軍が直接政治を行うようになりました。沖縄で一番大きな権限をもっていたのはアメリカ軍が任命するアメリカ人の民政副長官でした。

 

 

当時沖縄には日本国憲法や戦後にできた日本本土の法律は一切適用されず、憲法で認められた社会保障や学校教育、基本的人権は沖縄の人たちには実行されなかったとされます。

 

 

 

これに対して日本本土の占領は間接方式でした。日本を占領するためにおかれたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本の国民に直接命令をくだすのではなく、かんたんな文書で指令を日本政府に伝え、日本政府がそれをもとに法律などをつくって実行しました。GHQでもっとも力をもっていたのはアメリカで、最高司令官はアメリカ軍人のマッカーサーでした。

 

 

ただし、間接方式とはいっても、占領によって日本の国家主権はなくなり、外交や国家間の貿易に関する権限は、すべてGHQが持つことになります。GHQは非常に大きな権限を持っていたので、占領が思うように進まないようなときには、アメリカ軍が直接介入することもありました。

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