原爆投下の影響

アメリカは原爆の使用によってソ連に頼らなくても日本を降伏させるという考えを持ちます。そうすれば戦後、アジアでのソ連の影響力は小さくなります。つまり原爆の投下にはアメリカが戦後のアジアでソ連への優位を保つという意味があったのです。

 

 

 

アメリカの思惑を察知したスターリンは対日参戦の予定を早めて8月9日未明に満州に進軍をはじめます。突然中立条約を破って攻め込まれた関東軍は大敗し、ソ連軍は一気に南下を進めました。

 

 

満州で暮らしていた開拓移民は撤退する日本軍に取り残され、自力での日本への引き揚げを強いられます。途中でソ連軍に捕らえられシベリアに送られて強制労働をさせられた男性たちもいました。日本に引き揚げることもできず、残留孤児として戦後も中国で生きることになった子どもも数多くいました。

 

 

 

アメリカが原爆の投下を決定したのは、戦後のソ連のアジアへの影響力拡大をおさえようとしただけではありませんでした。原爆の開発にはすでにかなりの税金がかけられていました。もしもそれを使わずに戦争が終わったら政府が議会でその「浪費」の責任を問われるのではないか、という心配もあったと言われています。トルーマンはアメリカ国民に対して、日本軍の真珠湾攻撃や捕虜に対する虐待などを取り上げて、日本が国際法に違反してアメリカに莫大な損害を与えたので原爆を投下したと説明します。こうして戦後のアメリカ社会では原爆の投下が戦争を早く終わらせ、アメリカ兵のさらなる犠牲を食い止めたのだという考え方が広がっていきます。

 

 

 

アメリカの原爆投下とソ連の対日参戦によって、8月10日、日本はついにポツダム宣言を受け入れることを決めます。その知らせは瞬く間に世界を駆け巡りました。中国の重慶では早くも祝賀が始まり、朝鮮総督府は敗戦による日本人への被害を食い止めようと即座に朝鮮の独立運動家との交渉を始めます。

 

 

日本の敗戦が国民に知らされたのは8月15日の正午のことでした。天皇がラジオ放送を通じてポツダム宣言を受け入れたことを伝えました。敗戦を天皇に詫びるため皇居前でうなだれる人々の姿も見られましたが、戦争が終わったことに安心し、戦地からまだ戻らない家族の無事を祈る姿もありました。

 

 

 

9月2日、東京湾に停泊するアメリカの戦艦ミズーリ号のうえで、日本政府は降伏文書に調印します。日本はアメリカを中心とする連合国軍に支配・占領されることが決定しました。

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