アジア・太平洋戦争原子爆弾の投下

ヨーロッパではついに連合国軍がドイツの首都ベルリンに入ります。5月にヒトラーは自殺し、ドイツは無条件降伏しました。沖縄戦に敗れた後も日本の軍部は「本土決戦」「一億玉砕」を叫びますが、政府は「国体維持」を前提として戦争終結への道を探るようになっていきます。

 

 

 

そのようななか、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳はベルリン近郊のポツダムで会談し、日本に無条件降伏を勧告します。このとき出されたポツダム宣言では、軍国主義をやめること、カイロ宣言にもとづき植民地や占領地を放棄し、日本の領土が縮小されること、武装解除すること、戦争犯罪人を処罰すること、民主主義を確立することなどを日本に求めていました。ポツダム宣言は「国体維持」について触れなかったため、日本政府はこれを「黙殺」して戦争を続けると発表します。このことは連合国軍に「取り合わない」という意味ではなく「拒絶する」と受け止められました。

 

 

 

8月6日の朝8時15分、アメリカは広島に原子爆弾を投下しました。人類史上はじめて核兵器が使用されたのです。ピカッと一面に強い光がはしり、ドンと大きな爆音がしてあたり一帯が爆風に包まれました。風圧で一瞬にして建物が崩壊し、人々を熱風が襲いました。それまでの爆弾をはるかに上回る破壊力でした。

 

 

焼け死んだ人が非常に多く、黒焦げになった死体が多数でました。続いて9日の午前11時2分にはアメリカは長崎にも原爆を投下しました。死亡者の数は広島で約14万人、長崎で約7万人です。両市とも人口の3分の1を超える人が死にました。また、それを上回る多数の人々が放射線の被爆による後遺症で苦しんでいます

 

 

。直接被爆していなくても被爆地で救護活動をしているうちに残っていた放射線で被爆した人もいます。親の被爆に影響を受けた被爆2世や3世の被害も深刻です。犠牲者は日本人だけではなく、広島・長崎にいた朝鮮人や中国人、そして連合国軍の捕虜にまでおよびました。

 

 

 

このように非常に強い破壊力をもつ原爆はなぜ投下されたのでしょうか。原爆開発に携わった科学者にはドイツの迫害を受けてきた人が多く、彼らはドイツ降伏後に原爆を使用することにはためらいました。

 

 

国際連合創設への過程で、破壊力がすさまじい原爆は国連が管理するという案も考えられていました。しかしこのときのアメリカ大統領トルーマンは、アメリカで完成した原爆に予想以上の破壊力があることを知ると、原爆の使用によって日本を降伏させられると考えました。

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