アジア・太平洋戦争での沖縄戦での犠牲

大国同士が戦後の政治的な駆け引きをするなか、勢力圏の調整が行われ、その地域に住む人々の意向が考慮されることはありませんでした。戦争末期には、イギリスやフランスなど連合国側の植民地でも、帝国主義的支配からの解放と民族の独立をめざす運動が活発になっていきます。

 

 

 

ヤルタ会談が行われていたころ、日本ではもう敗戦は避けられないという判断もでてきました。近衛文麿は「国体維持」つまり天皇制を維持するため、早く講和を実現するように天皇に訴えますが、軍部は最後まで戦うと主張し、天皇も少しでも有利な条件を作り出そうと即時和平を退けます。

 

 

このような政治判断のいっぽうで民衆の犠牲はさらに増えていきます。ついに、小笠原諸島の硫黄島でも、アメリカ軍との本格的な戦闘が始まりました。

 

 

アメリカ軍は上陸後5日間で島を占領する予定でしたが、日本軍の激しい抵抗によって実際には35日かかりました。そうした激戦のすえ、3月末に硫黄島を占領したアメリカ軍はその後すぐに沖縄県の慶良間諸島に上陸します。

 

 

そして4月には沖縄本島へと戦闘が拡大しました。投入されたアメリカ軍はノルマンディー上陸作戦を上回る大規模な部隊でした。

 

 

上陸に先立ち、軍艦から徹底的な砲撃が加えられ、航空母艦を飛び立った飛行機が爆撃をおこないました。「鉄の嵐」と呼ばれたその攻撃は、地形が変わってしまうほどの激しいものでした。

 

 

 

沖縄でも数多くの地域住民が動員され、多くの子どもが戦争に関わることになりました。男子中学生は「鉄血勤皇隊」として参戦させられ、女子学生は「ひめゆり学徒隊」などの看護隊員として戦場に向かいます。本土決戦を引き伸ばすため、沖縄の人々には徹底抗戦が求められたのです。

 

 

 

激しい戦闘が行われるなか、手榴弾などを使った「集団自決」も強いられました。ガマとよばれる天然の洞窟にかくれていた住民たちも捕虜になるくらいなら死ねと要求され、親が子を、夫が妻を、子が老いた親を、多くの人が互いに命を奪い合いました。崖から飛び降りることもありました。

 

 

 

読谷村のチビチリガマでは「集団自決」の犠牲者の約60%が子どもでした。いっぽう近くのシムクガマではハワイ移民の経験を持つ住民がみなに投降を説得し、多くの命が助かりました。

 

 

 

ついに6月23日、沖縄での戦闘は終わり、沖縄はアメリカ軍に占領されます。沖縄戦は軍人よりも民間人の死亡者のほうが圧倒的に多いという住民の犠牲がきわめて大きな戦争でした。

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