アジア・太平洋戦争、連合国の戦後構想

イタリアが戦争に早い段階で負けたのは連合国軍の力だけでなく、ファシズムの支配に対する地域の人々の様々な形での抵抗運動があったからでした。

 

 

 

ファシズムに対する抵抗、レジスタンスの体験は戦後ヨーロッパ社会の大きな支えになります。

 

 

 

連合国は、残るドイツと日本との戦いでの勝利を目指し、何度も首脳会談を開きます。日本については11月に、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相、中国国民政府の蒋介石主席がエジプトでカイロ会談をもちました。

 

 

この会談でアジアを第一次世界大戦以前の状況に戻し、日本は台湾や「満州国」などを中国に返すべきであるとまとまりました。また、朝鮮人のおかれた状況は日本の奴隷同然なので、朝鮮をやがて自由で独立なものとすると合意しました。しかし「やがて」という表現は曖昧で、これが戦後の朝鮮の混乱と南北分断につながります。

 

 

 

ドイツについてはルーズベルト大統領とチャーチル首相、ソ連のスターリン首相がイランのテヘランで会談をもち、ドイツを西側からも攻撃することを決めます。

 

 

1944年6月には、連合国軍が北フランスのノルマンディーで史上最大といわれる上陸作戦をおこない、ドイツ軍を追い詰めていきます。東側からは、ソ連軍がドイツ軍に勝利を収めながら進み、東ヨーロッパでの影響力を強めていきます。バルカン半島ではチトー率いるパルチザンが、ソ連軍の助けなしでドイツからの自由を勝ち取りました。

 

 

 

1945年2月、ドイツ降伏が間近にせまるなか、アメリカ・イギリス・ソ連の3首脳は黒海に面するソ連のヤルタ(クリミア共和国)で、ヤルタ会談を行いました。この会談では、国際連合の創設へむけての話し合いが行われたほか、ドイツの戦後処理問題をはじめとするヨーロッパ情勢や、東アジア情勢について議論されました。

 

 

ドイツは連合国が共同で管理することになります。ドイツを分割して占領すると決めたことは後の東西分裂につながりました。東アジアについては、ソ連の日本に対する参戦の日程と目的を具体的に示した秘密協定が結ばれました。

 

 

日ソ中立条約は1946年まで有効でしたが、日本軍と激しく交戦していたルーズベルトの要請で、スターリンはドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終わった2,3ヵ月後に対日参戦すると約束したのです。

 

 

その条件は樺太南部など、日露戦争以前にソ連が持っていた権益の回復と、千島列島の引渡しでした。

 

 

 

こうして連合国側は結束を強めながらも、それぞれの思惑は食い違いを見せていたのです。

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