アジア・太平洋戦争における空襲と学童疎開

戦争末期には、爆弾を積んだ飛行機や魚雷にひとりで乗り込み、敵の船に体当たりする「特攻隊」による攻撃もはじまります。そのなかには、10代の少年志願兵もかなりいました。

 

 

 

このころになるとアメリカ軍による日本本土への空襲もはじまりました。1944年にサイパン島をアメリカ軍が占領してからは、この島から日本本土を爆撃することが可能になったのです。B29型爆撃機による空襲が日本列島一帯の主要都市に行われました。

 

 

1943年までは日本軍による爆撃が中国の人々に大きな被害を与えてきましたが、今度は日本の人々が空からの無差別攻撃におびえる毎日がはじまりました。特に被害が大きかったのは1945年3月10日深夜の東京大空襲でした。

 

 

夜間の2時間半の焼夷弾攻撃で、約10万人が死亡しました。死者の数では、長崎の原爆を上回るほどの被害でした。

 

 

 

あいつぐ空襲を受けて都市に暮らす人々は空襲から身を守るための防空壕をつくったり、隣組で協力しあって防火訓練を行ったりしました。

 

 

また、空襲や軍艦からの艦砲射撃を受ける危険が少なく、都市部よりは安全で食料もある農村部に避難する「疎開」が広がります。なかには疎開先を台湾や朝鮮にする人もいました。子供たちを集団で疎開させる「学童疎開」をおこなう国民学校もありました。また、住宅を壊し、道路の幅を広げる建物疎開もありました。

 

 

 

都市でも農村でも、人々には生活のなかで戦争を支えていく「銃後の守り」の強化がもとめられました。総力戦体制の社会では、戦争への協力や集団行動に反対する人は「非国民」だと非難されました。

 

 

隣組は戦時下の苦しい生活を支え合う役割を果たしましたが、互いに行動を監視しあうという意味も持っていたのです。治安維持法、国家総動員法にしばられた社会では、命の尊さや人権の尊重を基本に社会や国際関係の改善を訴えるのはとても難しいことでした。大きな反戦運動も日本では起こりませんでした。

 

 

逆に、生活ではあらゆる統制がつよめられ、戦争の被害を体験し、人々は戦争のつらさや苦しさを痛感していました。しかし、いっぽうで「本土決戦」は近いと臨戦態勢が高まります。

 

 

 

アジア・太平洋で日本軍の後退が続くいっぽう、ヨーロッパでは1943年9月にイタリアが連合国に無条件降伏しました。無条件降伏とは敗戦国が一切の条件をつけずに降伏することです。ムッソリーニは逮捕されますがナチスに救い出され、ドイツ軍の支援によって新政権を打ち立てます。しかしやがてイタリアのパルチザン(民衆非正規軍)に銃殺されました。

 

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