大正時代の戦場での生活・銃後の生活

日本軍の勢力範囲は1942年夏を境に、次第に縮小していきました。日本軍の敗退が続きましたが、軍部によって情報が制限されていたために日本が優勢であるかのように偏ったかたちで報道されます。

 

 

敗退は「転進」と言い換えられ、敵の損害が強調されて報道されました。日本軍の苦戦をありのままに報じることは、禁じられていたのです。

 

 

しかし、戦場にむかった家族からの便りがなくなり、モノ不足もひどくなっていきます。「玉砕」という美化された言葉であっても部隊の全滅が報じられ始めます。戦死の通知も次々と遺族のもとに届きますが、遺骨どころか爪でさえ、届けられない遺族が増えていきました。

 

 

 

やがて本土への空襲も本格化して、人々は日本のおかれた状況を肌で感じ始めます。

 

 

 

広い地域に散らばった日本軍は、物資の補給ルートも確保できずに、それぞれが孤立した状態で戦わなければなりませんでした。アジア・太平洋戦争で戦死した人の大半は戦争末期の1年から2年の間に集中しています。

 

 

その多くは食料不足による餓死者や心身の病気による病死者でした。勝ち目はないとわかっていても降伏して捕虜になることは許されていなかったのです。日本軍は兵士に「生きて虜囚の辱めをうけず」という心得を教え込んできました。

 

 

投降して生き延びて捕虜になるのは恥ずかしいことだ。死んだ方がましだ、という考え方です。これも日本軍の戦死者を増やした原因でした。

 

 

 

また、戦争が終わったことを長い間知らずにいて、捕虜にならないよう隠れ続けていた日本兵もいました。横井正一さんもその一人です。横井さんがグアム島から「恥ずかしながら帰ってまいりました」と帰国したのは1972年のことでした。

 

 

 

戦死者が増え、兵士不足がさらに深刻になると、徴兵の対象がますます拡大されていきます。それまで学生は徴兵が猶予されていましたが、戦争末期には医学生など一部の学生を除き、彼らも徴兵されるようになりました。

 

 

こうして「学徒出陣」し、戦死した学生の思いは戦後に出版された「きけ、わだつみのこえ」という本から知ることができます。また、兵士として動員される子供も増えていきます。

 

 

少年飛行兵、少年戦車兵などを養成する軍直属の学校もありました。1941年に小学校は「国民学校」に名を改められます。こどもは「少国民」と呼ばれ、これまで以上に天皇に尽くし国を愛するという「忠君愛国」の軍事教育が強められていったのです。

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