大東亜共栄圏の建設

戦争はしばらくのあいだ、日本・ドイツ・イタリアに有利に動いていました。日本軍は香港やシンガポール、フィリピンやインドネシアなど、アジア一帯を瞬く間に占領しました。

 

 

 

はじめはアメリカやイギリスの主な攻撃目標が日本ではなくドイツであったことや、東南アジアの現地軍は植民地軍だったので日本軍に対する士気がそれほど上がらなかったことが原因でした。

 

 

 

アジアの人々のあいだでも、はじめのうち日本軍を植民地支配からの解放軍だと信じ、日本がアジア諸国の独立を支援してくれるという期待が一部に広がりました。しかし、軍をすすめた日本軍が実際に命じたことは現地の人々の生活を犠牲にしてでも日本が戦争をすすめる上で必要な石油などの資源を確保することや、日本軍に従わない民族独立運動を厳しく弾圧することでした。

 

 

 

日本軍は資源の確保を急ぐために、欧米が作り上げていた統治機構や人材をそのまま活用します。このため、現地の人々は支配者が欧米人から日本人に変わっただけと感じました。また、日本軍は資源を奪うだけで、現地の人々の生活に必要な物資を供給することができず、人々は食べるものにさえ困るようになっていきます。地域の物流ネットワークは限界でした。

 

 

 

そして1942年6月のミッドウェー海戦や1943年2月のガダルカナル島での戦闘に敗れてからは日本軍は敗戦を続けます。ヨーロッパでもドイツ軍はソ連軍との戦いに敗れて後退し、1943年にはイタリアがついに降伏します。日本軍の勢力範囲もどんどん縮小していきます。アジア各地を占領していた日本軍は、現地の住民に戦争協力をさせるためにビルマやフィリピンで現地の住民による政府を成立させ、そのいっぽうで住民の戦争動員を強化します。

 

 

 

いまでもインドネシアでは「ロームシャ」ということばが「日本軍政下で過酷な労働を強いられた人」という意味の外来語として残っています。

 

 

ビルマ・タイを結ぶ泰緬鉄道の建設工事では、こうした労務者だけでなく戦争中に日本軍がとらえ、収容していた連合国軍捕虜も多く動員されました。

 

 

捕虜収容所で働いていた日本兵の中には戦後、捕虜に対する処遇などの責任を問われ、BC級戦犯(戦争犯罪人)としてさばかれた人もいました。

 

 

 

また、連合国軍の捕虜のなかには日本に連れてこられ、鉱山や軍需工場などで強制的に働かされた人もいました。戦後、日本の戦争責任や戦争中にうけた被害の補償を訴える声は欧米諸国からもおこっています。

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