第二次世界大戦のはじまり

日本は「満州国」を建てたころから、ソ連と接することになった満州の国境沿いに兵力を増強していました。こうした地域では、頻繁に武力衝突が起こり、その回数や規模も拡大していきます。ついに1939年5月、関東軍はモンゴルとの国境沿いのノモンハンでソ連・モンゴル両国軍と戦争を始めますが、戦車など近代的な装備に勝るソ連軍に大敗しました。この戦争を「ノモンハン事件」といいます。

 

 

 

そのさなかの8月にドイツは突然、日本と共通の敵対相手だったはずのソ連とたがいに相手の国に攻め込まないという不可侵条約を結びます。日本政府には「複雑怪奇」で理解しがたいことでした。

 

 

実はドイツはポーランドをソ連と分割する計画を持っていたのです。日本と戦争状態にあったソ連にとってもドイツ不可侵条約を結ぶことはヨーロッパ方面を安全にするという利点がありました。条約締結直後の9月、ドイツはポーランドに攻め込みます。

 

 

ポーランドを支援するために、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、再びヨーロッパは大きな戦火に包まれることになりました。これが第二次世界大戦の始まりです。この時点では、アメリカは「中立」を宣言し、戦争には加わりませんでした。

 

 

 

国際情勢が激しく動く中で日本政府ははじめのうち、ドイツとも一定の距離をおき、ヨーロッパでの戦争には介入しないと宣言します。しかし、1940年にオランダやフランスがドイツに降伏し、ドイツがヨーロッパ一帯に勢力を広げる状況になると日本でも勢力拡大をねらって「南進論」が急速に強まっていきました。

 

 

 

「バスに乗り遅れるな」、つまり世界の時流を逃してはならないという合言葉のもと、日本にもナチス・ドイツのように国をあげて一致団結するための組織をつくろうという、「新体制運動」がはじまります。

 

 

こうした動きのなかで7月にふたたび、近衛文麿内閣(第二次近衛文麿内閣)が成立します。近衛内閣は「東亜新秩序」をさらに広げて、東北アジアだけでなく東南アジアまで含んだ「大東亜新秩序」の建設を呼びかけました。このころから日本では「大東亜共栄圏」という表現がさかんに用いられるようになっていきます。

 

 

 

ついに日本軍は9月、フランス領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア)の北部に軍隊を送ります。その直後に日本政府はドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を結びました。ヨーロッパにおけるドイツとイタリア、アジアにおける日本の指導的な地位を認め合った同盟です。

関連ページ

普通選挙法と治安維持法
恐慌のはじまり
大正時代のアジアのナショナリズム
大正時代の列強の対立ー三国同盟と三国協商ー
第一次世界大戦
第一次世界大戦への日本の参戦と二十一カ条の要求
第一次世界大戦中のロシア革命とソビエト政府
第一次世界大戦でのアメリカの参戦と講和への道
講和会議とベルサイユ条約
国際連盟という組織(大正時代)
総督府による武断政治とは
三・一独立運動と五・四運動
大正時代の日本による朝鮮・中国支配から独立運動の広がり
中国とインドの独立
大日本帝国の拡大(大正時代)
大正時代の米騒動のはじまり
大正時代の労働運動の広がり
大正時代の衣食住に関する民衆の意識|社会運動の展開
大正時代の政党内閣と普通選挙
大正時代の政党内閣と普通選挙
大正時代の民本主義と国政調査|大正デモクラシー
大正時代の都市と郊外の発達
大正時代の文化の広がりと世界恐慌
世界恐慌とナチス登場
ナチスの台頭とブロック経済
昭和恐慌と軍縮会議
満州事変と五・一五事件
大正時代、国際連盟からの脱退
治安維持法と満蒙開拓団、帝国の拡大と再編
満州国と日本の進出
大正時代、加速する戦争
日中戦争の始まり
広がるファシズム運動
大正時代の日本軍の中国侵攻
大正時代の「抗日」が持つ意味
大正時代の戦争への動員体制
大正時代、朝鮮に対する皇民化の強化
アジア太平洋戦争への道
大政翼賛会
真珠湾攻撃
大東亜共栄圏の建設
大正時代の戦場での生活・銃後の生活
アジア・太平洋戦争における空襲と学童疎開
アジア・太平洋戦争での沖縄戦での犠牲
アジア・太平洋戦争、連合国の戦後構想
アジア・太平洋戦争原子爆弾の投下
原爆投下の影響
アジア・太平洋戦争終戦後の新しい世界の幕開け
ポツダム宣言
民主主義への道のり
敗戦国となった西ドイツと日本の違い