アジア太平洋戦争への道

日中戦争が長引く中で、日本はこれ以上、中国にある欧米列強の権益を侵さないようにすることが難しくなっていきます。中国は軍隊に必要な物資を欧米から輸入しており、抗日運動は欧米の租界を利用しても行われてきました。日本は欧米列強と結んできた国際的な取り決めを守れなくなっていきました。

 

 

 

逆に日本では、日本をアジアの「盟主」と位置づけ、アジアから欧米諸国を追い出さなければならないという考えが次第に強まっていきます。

 

 

 

1938年1月に近衛文麿内閣は、「これからは蒋介石らの国民政府を中国を代表する交渉相手とは見なさず、この政府が抗日運動をすすめて共産主義を容認しているかぎり、日本は戦い続ける」と発表し、中国の内陸部や南部へとさらに軍隊を送って、戦闘地域を広げていきました。

 

 

しかし、その規模は日本の軍事動員力の限界に達していました。戦争で中国との関係に決着をつけようとしていた日本でしたが、みずから戦争の泥沼にはまっていったのです。

 

 

 

事態を解決することができなくなった近衛内閣は改めて11月に「東亜新秩序」建設を訴えました。中国に対し、これまでに日本が広げてきた占領地をそのままにした状態での停戦をもとめ、日本や「満州国」とともに東アジアに新しい秩序を打ち立てようと呼びかけたのです。

 

 

日本は重慶から蒋介石ではなく、国民政府の幹部だった汪兆銘を連れ出し、彼を担ぎ上げて南京に新政権を作らせます。しかし、国民政府による抗日戦争は収まることがなく、近衛内閣は総辞職します。

 

 

 

いっぽう列強は、中国での自分たちの権益を日本から守ろうと、蒋介石への支援を強めていました。日本は東南アジアの欧米植民地から蒋介石に援助物資を送る経路「援蒋ルート」を遮断しようとします。

 

 

また、アメリカは日米通商航海条約を破棄し、くず鉄の輸出を禁止するなど、経済的な手段で日本への圧力を強めました。日本軍の「南進」は列強と日本との対立を決定的なものにしていきます。

 

 

 

日本では、このように戦争で現状を打開しようとする傾向が強まっていきました。しかし日本人の大多数は総動員体制がとられ、戦争が日常の生活文化のなかにまで浸透していくなかで、それに疑問を感じなくなっていました。ですが、外交で戦争を回避しようとする動きはありました。また、日本が侵攻を考えていた地域も、政府や軍部では、中国南部からさらに東南アジア方面へとすすむ「南進」か、北方方面へすすむ「北進」かで意見がまとまっていなかったのです。

関連ページ

普通選挙法と治安維持法
恐慌のはじまり
大正時代のアジアのナショナリズム
大正時代の列強の対立ー三国同盟と三国協商ー
第一次世界大戦
第一次世界大戦への日本の参戦と二十一カ条の要求
第一次世界大戦中のロシア革命とソビエト政府
第一次世界大戦でのアメリカの参戦と講和への道
講和会議とベルサイユ条約
国際連盟という組織(大正時代)
総督府による武断政治とは
三・一独立運動と五・四運動
大正時代の日本による朝鮮・中国支配から独立運動の広がり
中国とインドの独立
大日本帝国の拡大(大正時代)
大正時代の米騒動のはじまり
大正時代の労働運動の広がり
大正時代の衣食住に関する民衆の意識|社会運動の展開
大正時代の政党内閣と普通選挙
大正時代の政党内閣と普通選挙
大正時代の民本主義と国政調査|大正デモクラシー
大正時代の都市と郊外の発達
大正時代の文化の広がりと世界恐慌
世界恐慌とナチス登場
ナチスの台頭とブロック経済
昭和恐慌と軍縮会議
満州事変と五・一五事件
大正時代、国際連盟からの脱退
治安維持法と満蒙開拓団、帝国の拡大と再編
満州国と日本の進出
大正時代、加速する戦争
日中戦争の始まり
広がるファシズム運動
大正時代の日本軍の中国侵攻
大正時代の「抗日」が持つ意味
大正時代の戦争への動員体制
大正時代、朝鮮に対する皇民化の強化
第二次世界大戦のはじまり
大政翼賛会
真珠湾攻撃
大東亜共栄圏の建設
大正時代の戦場での生活・銃後の生活
アジア・太平洋戦争における空襲と学童疎開
アジア・太平洋戦争での沖縄戦での犠牲
アジア・太平洋戦争、連合国の戦後構想
アジア・太平洋戦争原子爆弾の投下
原爆投下の影響
アジア・太平洋戦争終戦後の新しい世界の幕開け
ポツダム宣言
民主主義への道のり
敗戦国となった西ドイツと日本の違い