大正時代、朝鮮に対する皇民化の強化

「私どもは大日本帝国の臣民であります。私どもは心をあわせて天皇陛下に忠義をつくします。私どもは忍苦鍛錬して立派な強い国民となります」

 

 

 

朝鮮では、内地と朝鮮はひとつであるという「内鮮一体」を合言葉に、大人も子どもも行事があるごとに「皇国臣民」として、このような誓いを日本語で唱和させられるようになりました。村ごとに神社を建てることが目標とされ、人々は神社参拝を強制されるようになりました。神社は台湾や満州にも建てられましたし、南太平洋のパラオにも南洋神社がありました。

 

 

 

また、この時期には植民地にも志願兵制度が導入されました。日中戦争が長引いたことで、兵力の不足は深刻でしたが、人々の大きな抵抗を武力で押さえつけながら植民地を支配してきた日本は、植民地出身者を兵士にすることには慎重でした。

 

 

彼らに武器を持たせたら、日本に攻撃してくるのではないかと恐れたのです。そこで徴兵制の実施は先に延ばして日本に協力的な「皇国青年」を選んで、動員することからはじめたのです。

 

 

 

植民地の学校では、授業以外でも日本語を使うことが強制され、自分たちのことばを教えることは禁止されました。宗教上の理由で、神社への参拝などを断ったキリスト教系の学校などは廃校に追い込まれました。

 

 

 

朝鮮ではさらに1940年から「創氏改名」がはじまりました。これは、人々の名前を強制的に日本風に変えさせるだけでなく、朝鮮にはなかった「氏」をつくり、家族制度じたいを大元から変えようとする制度でした。

 

 

たとえば、朝鮮では結婚しても女性の姓は変わりませんでしたが、「氏」の創設によって、妻も母もすべて戸主の氏に統一されることになりました。日本風の氏を届け出てなくても「創氏」はすべての朝鮮人に対して行われました。

 

 

また、改名は義務ではありませんでしたが、日本風の氏を作るのだからあわせて名前も改めるべきだといわれ、名前まで日本風に変えた人も少なくありませんでした。

 

 

 

このように日本が国家総動員法のもとで民族性をことごとく否定する政策を取ったことは植民地の人々に大きな反感を持たせることになり、民族を結束しての抵抗を呼ぶことになりました。しかし、日本の政策に反対するには投獄や死を覚悟しなければならないほど弾圧は強まっていました。「三・一独立運動」のときに活躍した知識人であっても、この時期には「皇民化」を率先して行う役割を果たしていた人もいます。

 

 

 

こうして植民地、占領地、アイヌ、沖縄などでも「皇民化」ということばは使われ、同化政策の象徴としても使われていくのです。

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