大正時代の日本軍の中国侵攻

勢力をのばすファシズムに対して「反ファシズム」をかかげ、幅広く連帯して戦っていかなければならないという動きが世界に広がっていきます。フランコ将軍と戦うスペイン政府側を応援しようと、志願した人々によって国際的な義勇軍も結成されます。これに参加したアメリカの作家ヘミングウェイは、このときの体験をもとに「誰がために鐘は鳴る」という小説を書きました。

 

 

 

日本が中国の都市に対しておこなった爆撃は、ゲルニカ爆撃とならんで国際的に非難されました。しかし、日本軍は中国軍と激しい戦闘を続けながら中国の中部や北部へとさらに進んでいき、12月には首都南京を占領します。この間、日本軍は南京で非常に多くの中国人を虐殺しました。長く激しい戦いのなかで、日本軍の規律は乱れ、戦闘行動だけでなく、殺人や暴行、略奪、放火などによっても大きな被害を中国の人々にもたらしました。その後、日本軍も関係して各地に「慰安所」が作られていったのは、南京で日本兵が多くの中国人女性を襲ったことがきっかけになったという話もあります。

 

 

 

現在、中国の中学生用の歴史教科書には「日本軍は集団で、銃殺や生き埋め、刀で斬る、焼き殺すなどの悲惨な方法で聞く人を震え上がらせる南京大虐殺を引き起こした」と書かれています。こうした日本軍の行動は、当時イギリスやアメリカの新聞などでも詳しく報じられ、日本の行動が非難されていましたが、日本ではほとんど報じられませんでした。第二次世界大戦後に開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)でこの問題が取り上げられ、日本国民は衝撃を受けたのです。

 

 

 

日本軍の南京でのこうした行動は、その後も次第に拡大していきます。爆撃の目標は国民政府の臨時首都となった重慶に定められました。1938年から43年まで、200回を越える爆撃が重慶やその周辺地域で行われました。このとき世界初の「じゅうたん爆撃」や昼夜連続の爆撃を行ったため、死傷者が26000人あまりも出ました。

 

 

 

中国各地への爆撃では毒ガスなどの化学兵器や、ペスト菌をもつノミなどの生物兵器もまかれます。また地上でも「三光」と呼ばれる戦闘が行われました。三光とは中国語で、「焼き尽くし、殺しつくし、奪いつくす」という意味です。そのため日本人は中国人に「日本鬼子」とよばれるほどになります。終わらない空爆は相手にたたかう気力をなくさせることを狙ったものでしたが、それは逆に中国人の日本軍に対する抵抗を強めることになりました。

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