日中戦争の始まり

日本が中国への侵攻を進めていたころ、中国では内戦が激しさを増していました。国民党と共産党とは帝国主義に反対する共通の立場から、いったんは協力関係を結んでいました。「国共合作」といわれます。

 

 

しかし、このころには協力関係がくずれ、どちらも相手に打ち勝つことが、まず第一だと考えて、戦争を繰り広げていたのです。

 

 

 

いっぽうこの内戦の混乱を利用して、日本の侵攻がさらに広がっていくと、日本軍と戦うためには中国人同士が団結しなければならないという考えが次第に広がっていきます。共産党軍への攻撃を指揮していた蒋介石は1936年に西安で部下である張学良らに監禁され、そこにかけつけた共産党の周恩来たちから内戦をやめて団結して日本と戦わなければならないと説得されます。

 

 

この事件をきっかけにして、ふたたび国民党と共産党は協力体制を組むことになりました。1937年に日本と中国の全面的な戦争がはじまると、国民党と共産党は二度目の国共合作を決めて停戦します。さらにこれに軍閥も加わって「抗日民族統一戦線」といわれる、国をあげて日本と戦う体制がつくられていきます。

 

 

 

日中全面戦争がはじまったのは、1937年7月7日、七夕の夜のことでした。日本軍は北京郊外にある盧溝橋で演習を行っていました。

 

 

演習が終わろうとしていたとき、頭上を数発の銃弾がとび、兵士1名が一時行方不明になります。だれが銃を撃ったのかはわからず、その後、兵士も戻ってきたのですが、この事件をきっかけにして日本軍は中国軍に対する攻撃をはじめます。これを盧溝橋事件といいます。

 

 

 

現地では、日本軍と中国軍のあいだで停戦のための交渉が始まりますが、戦争は瞬く間に大きく拡大していきました。近衛文麿内閣ははじめ、中国との戦争を拡大しないと言いながらもすぐに10万人規模の軍隊を送ることを承認します。その後も日本軍はどんどん兵力を増強し続けて、陸からも空からも攻撃しますが、中国軍はひるむことなく激しく反撃を続けました。

 

 

 

日本はそのころ、この中国での戦争を「シナ事変」と呼んでいました。20世紀に入り、国際社会では戦争を起こさないための制度づくりが進んでいました。軍縮条約のほか、不戦条約(1928年)も定められました。国際法では、戦争をはじめるには相手に戦うことを伝える宣戦布告が必要だと決まっていました。

 

 

ところが日本は、これは戦争ではなく「事変」(大きな事件)なので宣戦布告は必要ないと主張しました。

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