大正時代、加速する戦争

1930年代なかばにはヨーロッパでも他国への侵略の動きがおこります。イタリアではファシスト党を率いて首相となったムッソリーニが独裁的な政治を行いました。

 

 

かつてのローマ帝国を地中海地域に再建しようと訴えるムッソリーニ首相は、「アフリカの角」と呼ばれる地域(現在のソマリア周辺)で軍事行動を進め、1935年に独立国であるエチオピアとの戦争を始めます。国際連盟は満州事変のときと違ってイタリアの行動を非難し、経済制裁を決めました。

 

 

しかし、イギリスやフランスはイタリアを孤立させることには慎重でした。そうすることでイタリアがナチス・ドイツとの関係を強めるのではないかと心配したのです。結局、石油や石炭は輸出禁止品目からは外され、地中海からエチオピアへの通路であるスエズ運河も閉鎖されませんでした。イタリアは戦争を続け、1936年にエチオピアを併合します。

 

 

 

いっぽうドイツも1935年に徴兵制を復活させ、1936年にはベルサイユ条約などで軍事行動が禁止されていたライン川両岸地域に出兵しました。この進駐はドイツ国民に熱狂的に支持されました。

 

 

この地域の家々にはナチスの旗が掲げられ、中心都市コブレンツ市街はナチス色で染まりました。こうしてドイツも対外侵略に大きく踏み出すことになったのです。イタリアとドイツはオーストリアをめぐって対立するなど、それまでは良い関係ではありませんでしたが、次第に関係を強めていきます。

 

 

 

ムッソリーニが率いるファシスト党や、ヒトラーが率いるナチスに見られるような独裁政治のありかたをファシズムといいます。その体制のもとで自由と民主主義は激しく攻撃されました。

 

 

先行きのみえない社会のなかで、ファシズムの思想は次第に世界中に広がっていきます。このころ、スペインで内戦を引き起こしたフランコ将軍もファシズムの影響を受けたひとりです。イタリアとドイツはそれぞれフランコ将軍を積極的に支援しました。こうして深まった両国の関係は「ローマ=ベルリン枢軸」と言われました。

 

 

 

日本とドイツも中国での利害をめぐって複雑な関係にありましたが、1936年には共産主義の思想や運動の広がりをふせぐことを目的とする条約を結ぶことになりました。そして1937年には、これにイタリアが加わり、「日独伊防共協定」が成立します。

 

 

イタリア、ドイツと共に日本も枢軸国と呼ばれるようになっていきます。「満州国」を建設した日本は次に隣接する華北5省を国民政府の影響下から引き離し、第2の「満州国」を作ろうとしていました。

 

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