満州国と日本の進出

満州へは日本企業や軍隊も積極的に進出していきました。「満蒙開拓青少年義勇軍」は数千人規模の男子(15歳〜19歳)をソ連と満州の国境地帯に送り込んだ政策でした。そして恐慌から抜け出すために政府は金融対策にも積極的に取り組みますが、欧米列強の「ブロック経済」にはばまれて日本からの輸出は伸び悩みます。

 

 

そのため日本も、広大な土地をもつ「満州国」をはじめ、朝鮮・台湾・樺太や南洋諸島といった大日本帝国の全域にひろがる経済圏づくりを展開していきます。

 

 

 

このように経済的なネットワークが強まるなかで植民地はもはや、たんに日本全土に米や穀物を供給するだけの存在ではなくなりました。日本と満州との結びつきが強まると貿易の中継地に変わった朝鮮北部は人口が一気に増え、急速に開発されていきました。日本はここに重化学工業の施設までつくりました。

 

 

たとえば、興南に日室が建設した窒素肥料工場には45000人もの人が働きました。日本を中心とする帝国体制の発展を目指す過程で植民地のもつ役割も多様化していったのです。現在、こうした「植民地近代化」をどう評価するかをめぐり、議論が沸騰しています。いずれにしても大日本帝国全域に及ぶ、日本本土を頂点とする分業体制の一環に満州も朝鮮も台湾もしっかりと組み込まれました。

 

 

 

日本では日本海を湖のようにとらえ、アジア大陸と日本海側の両岸をつなぐ航路をさらに充実させ、沿岸の諸都市を発展させようという考えもでてきました。この時代には日本海側と、首都もあり工業化がすすむ太平洋側との格差が問題として意識されはじめていました。

 

 

そしてアジア大陸との関係を考えると太平洋側よりも日本海側のほうが可能性に満ちているのではないかという発想が生まれてきたのです。現在、この構想は各都市の関係が対等であることを前提とした「環日本海地域協力」に生まれ変わって進められています。

 

 

 

日本は1932年に「満州国」を建国させたのちも中国での権益をさらに拡大することを目指していました。世界恐慌の影響に苦しんでいた欧米列強は東アジア情勢の変化に積極的に介入する余裕がなく、日本の侵略的行動を強くおさえるような動きは見られませんでした。国際連盟では集団安全保障が取り入れられていました。

 

 

これは、ある国が武力でほかの国への侵略をおこなった場合、すべての加盟国が団結して侵略をやめさせるという方法です。しかし、集団安全保障は実際にはうまく働かなかったのです。

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