治安維持法と満蒙開拓団

1930年代の日本では、共産主義に対する弾圧だけでなく、全体主義的な考え方が強まり個人の自由を尊重する言論や思想に対してまでも、強い圧迫が加えられるようになりました。

 

 

 

1925年に定められた治安維持法はその後、罰則が厳しくなり死刑にもできるようになっていました。1930年代になると、この法律によって逮捕された人は政治運動家や労働運動家、農民運動家だけでなく芸術家や文学者など幅広い分野にわたって増えていきます。「蟹工船」は北海道沖の船上の厳しい労働条件のなかでカニを捕り、缶詰をつくる労働者を描いた小説です。その作者の小林多喜二は社会運動や言論を監視して取り締まる特別高等警察(特高警察)による激しい拷問を受けて死亡しました。

 

 

 

言論や思想に対する圧迫は学問の自由が保障されるはずの大学にまで広がります。国会でも憲法学者で貴族院議員だった美濃部達吉が議員辞職に追い込まれます。彼の学説である「天皇機関説」が批判されたのです。しだいに国家主義的・軍国主義的な空気が日本の社会全体を覆っていきました。

 

 

 

生活苦からのがれるために、また、より自由で公正な社会を実現するためにさかんになっていた社会運動は次第に規模が小さくなります。このままでは暮らしていけないし、生きていけないと判断した農民のあいだでは政府のあとおしもあって新天地をもとめ、満州での農業開拓移民になる人が増えました。

 

 

日本人の最大の移民先が満州になっていったのです。そのいっぽうで国家や軍部による統制が強まり、息が詰まるような日本の社会からのがれるように中国大陸や朝鮮・台湾そして南洋諸島にむかう人も増えていきます。

 

 

 

満州事変ののち、日本政府は農民を「満蒙開拓団」として満州に送りました。恐慌による生糸の価格の暴落に被害をうけた養蚕農家の人々など、多くの日本人が満州一帯で農業を行うことになりました。

 

 

満州へは植民地だった朝鮮からも政府の主導で農民が送り込まれます。こうした人々は厳しい自然のなかで農業を行い、苦労して収穫を増やしたのですが、その土地はもともと中国人のものでした。

 

 

土地をうばわれた中国人は日本の政策のもとでやってきた日本人や朝鮮人に強い不満を抱きます。満州国では「五族協和」つまり、日本人・満州人・中国人・朝鮮人・モンゴル人が協力しあって生活しようという考えが打ち出されます。しかし実際には日本人に支配されていると実感する人々が少なくありませんでした。

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