満州事変と五・一五事件

蒋介石の北伐が華北にせまると田中義一内閣は在留日本人と権益の保護を名目として山東省に日本軍を出兵させます。また、関東軍(日本の租借地におかれた軍隊)は独自に鉄道や港湾建設をすすめていた張作霖を爆殺します。

 

 

 

この事件の対処への責任をとって、田中内閣は退陣し、つづく浜口雄幸内閣で幣原は外務大臣に返り咲きます。1930年にロンドンでも海軍の軍縮会議が開かれました。恐慌後の経済をたてなおし、英米協調をすすめることを選んだ浜口内閣は軍の反対を押し切って海軍軍縮条約に調印します。

 

 

これに対し国会では政友会などが天皇が持っている軍隊を率いる権利を侵す行為だと非難します。のちに浜口雄幸は東京駅で右翼の青年にピストルで撃たれて重傷を負い、退陣を余儀なくされました。

 

 

 

結局、日本は中国で軍事行動を展開し海外に勢力圏を広げるという道をすすんでいきました。その象徴が「満州国」の建国です。

 

 

国民党は南京に国民政府をつくり、北京政府を追い詰めていました。1928年には張作霖の息子の張学良も国民政府に合流し、外国支配下の地域を除いて中国全土が統一されます。欧米列強は中国統一の動きは阻止できないと考え、しだいに蒋介石に接近しますが「満蒙」権益の確保をめざす日本はこうした中国の動きを武力でおさえようとします。

 

 

 

1931年9月18日、関東軍は奉天の郊外にある柳条湖で満鉄の線路を爆破し、これを中国軍のしわざだといって軍事行動をはじめます。いわゆる「満州事変」です。中国では「9.18事変」といいます。

 

 

日本政府は関東軍の行動をおさえることができませんでした。若槻礼次郎内閣は、中国での戦争をこれ以上広げないという方針を打ち出しましたが関東軍はそれを無視して満州の占領を続けていきます。

 

 

また、当時、国際連盟の非常任理事国になったばかりの中国は国際連盟に「対日制裁」をもとめましたが、列強は日本寄りの態度をとりました。そして1932年3月1日に関東軍は清朝の最期の皇帝である愛新覚羅溥儀をかつぎあげて「満州国」の建国を宣言させます。日本の言うとおりに動く傀儡国家「満州国」の誕生です。

 

 

 

犬養毅首相は「満州国」の建国を承認することに対して慎重でしたが、5月15日に海軍の青年将校たちによって殺されてしまいます。5月15日は日曜日で犬養毅首相は自宅にいたようです。このクーデターを五・一五事件といいます。これ以後、第二次世界大戦が終わるまで政党内閣は途絶えました。

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